始まりの日 -My hero-

「悪魔め!!」
「出て行け!!」

飛んでくる家具には、もう慣れた。振り下ろされる腕にも。抵抗はしない。抵抗するとさらに面倒になるというのは、十というまだ幼い年齢でわかりきったことだった。
弟が闇雲に投げてくる食器を肩に受け、母親が振り下ろしてきた手を頬で受ける。
出て行けという割に家から出させようとしないじゃないか。

「さっさと出て行け!」

それでもなお出て行けと言う彼らに呆れる。出て行けばいいんだろう。足を引きずって、痛む肩を押さえて。ノロノロと家を出た。

「うわ悪魔だ!」
「呪われるぞ!」

直後に聞こえる、心ない言葉。呪う力なんて持ってねぇよ、なんていうのは周知の事実で。相手をするのすら面倒くさくて、いつもの場所へと足を向ける。

その、傍らで。

「げ、病の子達も出てきたぞ」
「逃げろ! 病気にされるぞ!」

そう聞こえた。
あぁ、あいつらも出てきたのか。ちらりと後ろを向くと、オッドアイの双子がノロノロと手を繋いで歩いてくる。
どうせ行き先は同じだと、少し立ち止まって彼らを待った。

「あいつらやっぱ気が合うんだろうな」
「お似合いじゃねぇか」

「そのまま出て行ってくれればいいのに」

その言葉を聞きながら、こちらに追いついてきた双子と共に、森へ入る。痛む体を引きずって、ゆっくりゆっくり歩いていく。
罵声、蔑み。悪魔だ病だ、帰ってくるな。もう聞き慣れた言葉が聞こえなくなったところで。

隣の女から、嗚咽が聞こえた。

それが引き金のように溢れてくる涙を、奥歯を噛んでどうにか止めようとする。
けれど止まらなくて。

「っ……ふ……」

その女、親友の妹のカリナがその場にしゃがみ込んだことで、決壊した。

俺も、同じようにその場にしゃがんで、声を上げて泣き出す。親友は泣かないように必死に嗚咽をこらえて、泣きじゃくる妹を抱きしめた。

溢れる涙を拭いながら、いつも心に問いかける。

あとどれくらい、こんな生活が続くんだろう。
あとどれくらい、俺達は、苦しめばいいんだろう。

けれど、誰に聞くでもないその問いには当たり前に返事はなかった。

 

 

「今日も泣き虫ね」

そう言う女を、睨みつける。その目は真っ赤で。

「お前だって泣いていただろう」
「あなたほどじゃないわ」
「先に泣いたのはお前だ」
「泣き虫リアス」
「おまっ──いって!」
「治療中に暴れんなって」

暴れさせたのはお前の妹だろ、というのは、レグナに薬草を強く傷に押し当てられたことで言う機会を逃した。
おとなしく傷の手当てを受ける。

毎日のように続く暴力や差別。
別に、俺達三人は特別な力を持っているわけじゃない。この小さな村に住む奴らと同じ、れっきとしたヒューマンで。

けれどヒトというものは、少し容姿が違ったり、その子の親が良くないものだったりすると、自分達と区別したい生き物らしく。

血を思わせる紅い瞳を持った俺は、「悪魔の子」。
双子の方は直接彼らが関係あるわけではないのに、親の喧騒が激しいせいで気を病んだ村人が出たと噂になり、「病の子」と呼ばれるようになった。

いつからだなんて覚えていない。
もう物心ついたときにはその名で呼ばれるのが、軽蔑されるのが当たり前で。

俺は、俺達は愛されることはないんだと知った。

ただ、どうしても、差別のせいで生きる場がないから死ぬ、というのは癪に障って。
自立して村を出られるようになるまで、あらがって生きると決めた。
そうして逃げ場となったのが、村の近くにある森の奥深くの、開けた場所。他種族の縄張りが近いところ。他種族を恐れて誰も来ないそこは、唯一生きることを許された場所で。

同じ境遇だった双子を連れて来て、三人で、大人になるまでの時間潰しをする毎日だった。

それでもまぁ、

「痛いです」
「そりゃ傷になってるからね」
「そうじゃなくて、心が痛いわ」
「えー、俺に言われても」

辛いものは、辛いわけで。先に治療が終わった俺は、木に凭れかかりながら、互いに治療し合っている双子に耳を傾ける。

「いつまで続くのかしら」
「大人になるまで、でしょ」
「先に死んでしまいそうね」
「そうなったら俺も後追うから安心して」
「そうならないように頑張ろうという言葉はないのか」

後追い宣言を軽々してしまう兄を咎めると、だってーなんて申し訳なさの欠片のない声が返ってきた。

「今のこの状況で死んでない方が奇跡でしょ?」

その言葉には、無言で肯定しておいた。

本当にそうだと思う。
特に、親友のレグナは。
共に生まれた妹を守るために、親友は妹の分まで暴力を受けていた。その体を見ると、俺よりぼろぼろで。顔は翠色の右目があるまぶたが痛々しく腫れている。こいつより少ない俺でさえ、毎日受け続ければ体はきしみ、歩くだけで痛みが出る。ならばレグナはどれほどだろうか。

大人になるまでの辛抱。心に何度も言い聞かせる。
けれど今の状態が続いていたら、大人になることだってできないかもしれない。
早くどうにかしなければ、先に大切な親友が死んでしまうかもしれない。

けれど、どうにもできない。

もどかしさに、ガリ、と強めに爪をひっかいた。

そんな、不安と焦燥の日々を変えたのは春の日だった。

 

 

「ここ、おめーらが使ってんだってー?」

いつもの開けた森の中。桜が満開で、ひらひらとピンク色の花びらが舞う。

綺麗な景色なのに。空気は凍っていた。

「随分いいところじゃねーか!」

見慣れない人間達が、木の棒を持って楽しそうな笑みを浮かべる。
レグナと二人、カリナを守るように立った。

「ここなら遊び放題だな!」
「良いところ見つけたな!」

俺達と同じくらいの年の少年達。見慣れない顔だ。村は小さいから、子供の顔なんて覚えられるくらいの人数しかいない。新しく来たんだろうとすぐに予想がついた。

「ここ、譲ってくれていいんだぜ?」

そう、ガキ大将のような奴が言う。
それに「断る」と返したいのに、声は出なくて。情けないことに体も震えていた。ガキ大将はカタカタと震える俺達を見て笑う。

「震えてんじゃねーか! 悪魔の子だとか病の子だとか言うから、どんな奴らがいると思って来てみりゃこんなよわっちぃとはなぁ!」

言われた言葉に、奥歯を強く噛みしめた。
今は泣くな。そう自分に言い聞かせる。

「いじめ甲斐がありそうだが、今日は気分がいいからな。譲ります、って土下座したら見逃してやっても良いぜ」

ガキ大将が笑うと、周りもそうだと言いながら笑った。

何故、こいつらはそんなに上から目線なのか。
”普通”がそんなに偉いのか。

悔しくて、精一杯、声を絞り出す。

「……ことわる」
「あ?」

声は、小さくて震えていた。聞き返されたのに、今度こそ。

「断る」

はっきりと、告げる。
ここが無くなったら、俺達に居場所はない。せめて大人になるまでは、ここを死守しなければいけない。
誰もが嫌う紅い目で、強く睨んだ。

「ここ、は。俺達の場所だ。使いたいなら、あんた達が願えばいいだろ」

我ながらものすごく上から目線だった気がする。が、今は強く出なければいけないと言い訳して。震える手を握って、相手の反応を待つ。

俺の言葉を聞いたそいつらは、しばらく固まっていた。そうして時間を掛けてゆっくり飲み込んで。

顔つきが、変わる。

「あ”?」

一気に増した圧で、足がすくんだ。

「こっちが譲歩してやろうと思えばいい気になりやがって! 何様だてめぇ!」

振り上げてきた木の棒に、レグナと共にカリナを庇った。

「っ……!」

肩に痛みが走る。

「村で聞いてりゃおめーらは誰からも嫌われてんだろ! そんな奴らは居場所なんてなくていいんだよ! いっちょまえに主張しやがって!」

蹴られ、殴られ。暴言を浴びせられ、自然と涙が出てきた。

「さっさと出て行きやがれ!」

頭に、がつんと衝撃が走る。
ちかちかと星が散った気がした。

「リアス……!」
「っ……」

視界が揺れる。地面が近くなったところで、カリナの泣きそうな声が、レグナの息を飲む音が聞こえて。手を着いて、なんとか倒れないようにと踏みとどまった。

「っ、ぐ……」
「リアス、血が」
「もうやめてください!」
「おめーらが譲るって土下座したらな!」

なんて下衆な奴らが来たものか。ぼんやりする頭で思う。けれど土下座なんてするつもりはない。こんな奴に頭を下げてたまるか。それはカリナもレグナも同じで。誰一人頭を下げようとはしなかった。
舌打ちの音が聞こえる。

「聞き分けねーやつら」
「なぁ、これ投げてやろうぜ!」

言葉が聞こえて、まだ痛む頭を抑えながら顔を上げた。
子分のような奴が手に持っているのは、手のひらサイズの石。

嘘だろ。

「いいじゃねーか! 痛い目みねぇとな!」

なんであんたも賛成すんだよ。悪魔の子の異名、あいつの方が合っているんじゃないか。

なんて的外れなことを考えている間に、ガキ大将は石を受け取って振りかぶる。
まずい。

逃げる力なんて残ってない。

けれどせめて、こっちの双子だけは。

無意識に、双子の前に出た。

「いっくぜー」

投げてくるその姿が、スローモーションのように見える。
終わるかもしれない。終わりたくない。そいつのコントロールが悪いことばかりを祈って、

目を、閉じた。

「!?」

瞬間に、真横をゴォッと音を立てて何かが通り過ぎた。
同時に、ヂッと摩擦音が聞こえる。ついでに言えばドゴォという音も。

……なんだ今の。

そっと、目を開けた。

ふわ、っと金色の糸のようなものが視界を舞った。風に流されるように舞うそれを目で追っていくと、明らかに青ざめた少年達が目に入る。ガキ大将の手には石が乗ったまま。投げられなかったことに安堵してさらに糸を追って行くと、一本の木に目が止まった。

その木は見事に抉れているじゃないか。俺が視線を向けたのを待っていたかのように、抉れた部分から石がころりと落ちる。

いやいやいや。
何が起きた。

「リ、リアス、平気ですか……?」
「怪我はないが」
「いや、そこ」

そこ? 呆然とした双子が指さす部分へと手を運ぶ。
はらりと何かが落ちた。目の前に持ってくると、先ほど舞っていた糸じゃないか。

いやこれ糸じゃないな? 俺の髪の毛じゃないか?

再びそこに手を運ぶと、幸い傷はないらしい。ただ少しだけ髪が薄くなっている気がする。いやぼさぼさだったからいいけども。

「お、まえ!」

そこで、やっと我に返ったらしいガキ大将が声を上げた。

瞬間。

「ぅぐあっ!?」
「「「!?」」」

また、何かが横切った。
小さなそれは、ガキ大将めがけて突進し、

あろうことか、その頬に跳び膝蹴りを食らわせている。

桜と相反した、水色の髪がふわりと舞った。
なんて可愛らしい表現をしているが現在の状況はまったく可愛げがない。

その水色の少女は倒れ込んだガキ大将の腹を思い切り踏んづけている。
呆然と見つめるだけだった少年達は、それを見て我に返り、少女に掴みかかった。

これを壮絶というのだろうか。

髪を引っ張られれば引っ張り返し、手を上げられれば近くにある石を掴んでぶん投げ。
俺達よりも一回りも二回りも小さな少女は、臆することなく少年達を制裁していた。

その小さな背中が本当にかっこよくて。

見惚れるように、三人で少女の勇姿を見ていた。

「いってぇな!!」

傷だらけのガキ大将が立ち上がり、手を上げる。

「お前また邪魔すんのかよ!!」
「こりないおまえたちがわるい!!」

負けじと叫び返す声は細いのに、力強い。叩かれる前に少女は思いきり相手の胸を叩いた。

「いてぇっつってんだろ!!」

「この人たちだっていたかった!!」

自分達の耳を疑うも、叫び合いは続く。

「石なげられて、たたかれて、このひとたちだっていたかったもん!! おなじことしただけ!!」
「こいつらはいいんだよ!!」
「よくない!!」
「こいつらは悪魔とか病とかで嫌われてんだよ!! こういう役割のやつらなんだよ!」

思い知らされて、ぐっと涙が出そうになる。
が、少女の言葉でそれは止まった。

「っそんな役割なんてない!! みんないっしょだもん! きらわれたら、愛されないって、知ったら!! あくまだろうがやまいだろうがみんなかなしいの!! こころがいたいのっ!!」

先ほどの勇ましい姿はどこへやら。そう叫ぶ少女の背中は、先ほどと違って小さくて、悲しそうだった。
まだほんの少し霞んでいる視界でも見えるくらい、震えていた。こころなしか、嗚咽も聞こえる。それでも少女は叫ぶ。

「なにもわるさしてないじゃない!! いっしょうけんめい生きてるだけじゃない!!」

どんなに──。

「っどんなに愛されなくても、生きてるじゃないっ…!!」

「……っ」

自然と、涙が溢れていた。

彼女の叫びに、小さな頃から蓋をし続けた思いが蘇る。

──ねぇ。

生きているだけなのに。
誰かを傷つけたことなんてないのに。

ただ容姿が少し違うだけで。

どうして、愛してくれないの?

ぼんやりとした視界の中で映るのは、少女の後ろ姿。けれどそこには、小さな頃の自分の姿が重なって見えていた。

完全に泣き出してしまった少女に、向こうがどうにもしがたい空気でいる中。俺は、少女に、重なって見えた自分に。引き寄せられるように今までの痛みなんて忘れて、立ち上がった。

「っ、う」
「……もういい」
「うぅー」

近づいていって、震えている背中をそっと撫でてやる。ついにはしゃがみ込んでしまった少女につられるようにしゃがんだ。
無意識に背中をさすっていると、何故か自分が落ち着いてきて。溢れた涙を拭う。

そこで、ずっと動けずじまいでいた少年達が、呆れたような声を上げた。

「っ、なんだよ! きょうざめだ!」
「いこうぜいこうぜ」
「そいつがいるならこんなとこ来るかよ!!」

そいつ、とはこの少女だろうか。恐らく同じ村だったんだろう。そう自分の中で納得して、去っていった少年達に安堵しながら、一旦双子達へと目を移す。

さて勢いで来てしまったがこの泣きじゃくる少女をどうすればいい。
生憎弟にも嫌われているため誰かを慰めるという行為などしたことがない。

救いを求めるように双子を見るも、彼らも戸惑ったまま。そうだあいつらも同じだった。

二人であわあわとしながら、レグナがカリナの背をあやすように叩いた。そうすればいいのか。

未だしゃくりあげている少女に目を戻し、レグナがやったように弱く弱く背を叩く。
それを少しの間続けていくと、段々と落ち着いたようで。しゃくりあげる回数が減った。

そうして、ぱっと顔を上げてこちらを向く。

深い深い蒼と、目が合った。
海を思わせるそれはまだ潤んでいるが、こちらへの心配の念も感じられた。

「…だいじょうぶ?」
「こちらが無事かと聞きたいが?」
「…へーき…」

少女はゆっくりと立ち上がって、ワンピースに付いた桜の花びらを払う。

ぐすぐすと鼻を鳴らしながら一通り払った後、少女は未だしゃがんでいる俺に手を差しのばした。

「……?」

突然の行為に俺は当然目を見開く。
ぱっと双子を振り返るが、二人も驚いた顔をしていた。再び少女へと顔を戻し、見上げる形になった蒼い目を見つめる。

「これは?」
「…んー…」

いやお前が悩んでどうする。小首を傾げて、腰まで伸びた水色の髪を揺らした。
ひらひらと、少女と相反した色の花びらが舞う中で、答えを待つ。

「あそぼ…?」

先ほどまで叫び続けていた声とは打って変わって、とても小さな声だった。もしかしたらこれが本来の声量かもしれないが。

何故わざわざここで、しかも俺達に遊ぼうと言うのは心底謎だった。けれどどこか不安げに見下ろしてくる少女の目が、また小さな頃の自分と重なって見えて。思わず手を伸ばしそうになった。
が、直前で一度止めた。

「……お前は、俺達を悪魔だ病だと馬鹿にしないのか」

彼女に応じる前に、尋ねる。助けてもらったのに疑うのは本当に申し訳ないが、許してほしい。散々虐められて生きてきたんだ。いきなり優しくされると裏があるように思う。それは双子も同じで。警戒心の孕んだ目で彼女を見ていた。

ただ、その当の本人は。

「…しないよ?」

どうして? と言いたげに首を傾げてしまった。
いや俺達が首を傾げたい。
どう説明するべきか。自分の傷を抉って言うべきか。そう思案していると、手を引かれた。言わずもがな、少女である。

驚き瞬いていると、桜の下では異色の水色が、ふわりと笑った。
あまりにもきれいなそれに見とれて、その小さな口が動くのを、ぼんやりとしながら見る。

「…もう、いたくないよ」

「……!」

たった、その一言。
一言だけで、無意識の内に強ばっていた体がふっと軽くなった。
自分が害のあるものではないと示したのか、それとも先ほどの輩を追い払ったから大丈夫だと言いたいのか、それは明確にはわからなかったが。どっちにしても、もう大丈夫だと言われたことに、ひどく安堵した。

痛くて、辛くて、それでもどうしようもできなくて。いつだって不安だった。
いつ死ぬかもわからない。大人になれるかだってわからない。どうしようもない不安に押しつぶされそうだったのが、初めて逢った少女の何気ない言葉でこんなにも救われるのか。
拭った涙がまた、溢れてくる気がした。

泣き出した俺を見て少女は不思議そうな顔をしたが、また微笑んで。俺の手を、少し強めに引く。その勢いで、立ち上がった。
俺と手を繋いだまま、先ほどよりかは警戒心の薄れた双子の前へと行く。いざなわれるように、少女の目の前に立った。

三人を順番に見て、小さな口で、紡ぐ。

「ちょっと、だけでいいの」

両手を差し出して。

「みんなで、あそびませんか」

満開の桜の下で、異色の水色は、笑った。

その、小さな手を。今度は止まらずに。

「……あぁ」

三人で、強く、握った。

三月二十七日。
少女が現れたことによって、人生が、変わった。

『小さなヒーロー』/リアス


水女みこ様」

あぁ、うるさい。

「今日もありがとうございます、恵みの子」

うるさい。

「この村に幸せを、お願いしますね」

誰も愛してくれないこんな世界。

「「水女さま」」

──早く、逃げ出してしまおう。

「まぁ水女様」
「おはようございます」
「…うん」

新しい村に来てから三ヶ月ちょっと。
この村の人たちは、ほとんど前いた村の人と変わんなくなってた。

──水女。別名、恵みの子。
水色の髪に深い蒼の瞳を持った、わたしの二つ名みたいなもの。
水を思わせる容姿だから、作物とかに恵みを与えてくれるんじゃないかってことで、前の村で名付けられた。
実際、わたしに不思議な力なんて無い。けれどヒトはなにかにすがりたい生き物らしく。
村を歩けば手を合わせて崇められ、雨の日になると、家に来て感謝を述べられる。

わたしにとって、気持ち悪い世界だった。

誰も”わたし”を見ない。水女という肩書きにしか興味がない。誰も、本当の意味では愛してくれない。

もう、うんざりで。逃げ出すことばかり考えてた。
そんなとき、村を移動することが決まった。元々他の種族の縄張りが近くて危険だからって移動はする予定らしかったんだけど、わたしが生まれてから小さな子が増えたから、早めることになったみたい。

それを聞いたとき、チャンスだと思った。
村が変われば、わたしが水女だなんて関係ない。そしたら、わたしを見てくれるかもしれない。
その期待を込めて新しい村に来た。

けれど。

「おはようございます水女様」
「うん…」

両親と兄により、結局前の村と変わらなくなった。

来た初日からわたしの売り込みを始めて、村長さんとかも「それはすごい」なんて言い出して。あぁこれはだめだと悟った瞬間、すべてにあきらめがついた。

わたしのこの世界は変わらない。
このまま、ずっと。それならば。

いつ終わったって、一緒じゃないか。

初日はまだ自由に動ける。あいさつ回りがメインだって言ってたから。
だからすべてを終えるなら今日だと、散歩に行くと嘘を吐いて村の近くにある森へと入っていった。

そこで出逢ったのが、三人の、村の嫌われ者の人たち。悪魔とか病とか、わたしみたいに名前を付けられてるんだって。

たまたまその人たちが、わたしの元いた村のガキ大将に虐められていて。
”価値なんてないんだよ”と、大将が偉そうに笑っているのが心底ムカついて。

思い切り石をぶん投げてやった。

そのまま蹴り飛ばし殴り合い、泣きながら追い返して。
やっと落ち着いたところで三人を見てみれば、わたしと同い年かちょっと上くらいの人たちだった。

あぁ、もしわたしが”普通”だったのなら。このくらいの人たちと遊んでるんだろうなぁって思った。

どうせこのあと死ぬのなら。
最後くらい自由になってみてもいいよね?

そう、自分に問いかけて。
”ちょっとだけ”と言って、その三人と、遊んでもらった。
それはもう楽しかった。なにも気にすることなく遊んで、向こうもわたしを「クリスティア」と親しげに呼んでくれて。
たった数時間だけど、悔いはなくて。幸せな気持ちで、この世界から抜け出せるなぁなんて思った。

 

 

思ったのだけど。

 

 

「おはよう」
「…おはよ…」

三ヶ月がたった今でも。
わたしは元気に生きている。

「随分不機嫌そうだな?」
「……」

みんながいた森に続く入り口。
そこに行くと、今日もその人はいる。

リアス。紅い目ってだけで、悪魔と呼ばれている人。

「もううるさいんだもん…」
「水女様は相変わらず大変だな」

からかうように言われて、差し出された手をパシンと叩いておく。

そんなわたしに笑って、リアスはそのままわたしの手を取って、森の奥へ歩き出した。

みんなと出逢ったあの日。暗くなってきて帰ろうかってなったとき、「もうちょっとここにいる」って言ったら見事にリアスに「帰るぞ」と言われた。
もっと森見てみたいしと言えば、明日また来ればいい。
まだ休憩してたいと言えば、なら俺たちもそうするか。

ああいえばこういう状態で、結局手を引かれて連れ帰られてしまった。

正直こっちとしては大変不服で。明日から自由が無くなるのにこの人はなんてことをしてくれるんだとちょっと腹が立った。
しかも手を繋いだまま村に帰ったから村の人たちは大騒ぎで。
汚れてませんかなにかされてませんかと質問攻め。

それに困ってたわたしに、リアスは言った。

こいつがいれば俺たちの悪い気が浄化されるらしい。だから森へ来させろと。

なに言ってるのこの人って思うよね。
わたし浄化の力なんてありませんけど?? あまりのびっくり発言に瞬きもできないでいると、村長さんは大歓喜。忌々しい気を祓ってくれるのですかと。
いやわたし祓い師でもないんですけど。もう恵みの子だとか水女だとかが一瞬にして確立されちゃったじゃん。ばかじゃないの。

いらつきがマックスになったころ、村の人たちはぜひにと言い出してしまう。
雨の日は感謝の日だから、その日以外はぜひこの悪魔たちの浄化に行って欲しいと。頷くかはすごく迷った。いらいらしてたから。
でも、リアスがそんなわたしを見て、ものすごく小さな声で「少しは自由になれるだろ」と言ったのでよくよく考えてみれば。まぁたしかにと納得できた。森に行けば家で閉じこめられることもなくなる。
ついでにこの世界からおさらばできるチャンスが増える。
なんだぐっじょぶじゃん。調子いいかも知れないけれどさっきのいらつきはなくなりまして。

そうして二つ返事で頷いた。

結果まったくもって自由じゃないんですけども。

その日からリアスは雨の日以外毎日迎えに来てるので一人になるということがないんですけども。

「自由ってなんだっけ…」
「どうした急に」

手を引かれるまま森の中を歩く途中で、思わずこぼしてしまう。

「リアスが少しは自由になれるだろって言ったからここに来るようになったのに…」
「自由になっているだろう?」
「どこが…?」

迎えに来て帰るまで常に一緒のどこが自由ですか。

「言っておくがお前相当自由に動いているからな?」
「えぇ…?」

いつもの場所へ続く一本道を歩きながら思い返してみるけれど、まったく心当たりがない。そんなわたしがわかったのか、リアスは溜息を吐いた。

「いきなり立ち上がって湖に行く」

それはのど乾いたからですね。

「かと思いきや花畑の方に走っていく」

きれいな花を見つけたからですね。

「そのままいきなり花冠を作ろうと言い出したな。水飲まずに」

これで作ったらきれいだなって思ったからですね。
なんだ。

「ぜんぜんふつうじゃない…?」
「一言も声を掛けずに駆け回るのは思い切り自由じゃないか?」

おかしい。

「それにリアスはついてくるじゃない…」
「自由人の行き先が気になってな」

そう笑うリアスに、ちょっとだけ胸から変な音が鳴った。

悪魔って言われてるリアス。
でも実際はすごく優しい人だって、この三ヶ月で知った。もちろん双子も優しい。その中で、リアスはとくに優しいなって思う。

文句言いながらもずっとついてきて、あれやろう、これやろうって言うと一緒につきあってくれる。
今まではずっと閉じこめられてたし、なにかやろうとしても全部だめって言われてたから、すごい新鮮でうれしくて。
それに、この人の笑った顔はすごく好きだなぁと思う。きれいな顔で、きれいに笑う。その顔が見たくて、また遊びたくて。
結局こうして、おとなしくここに連れてこられてしまう。

「まぁ動く前に一声欲しいというのも本音だが?」
「がんばる…」

自信ないけど、なんて笑いながら話してたら、光が射した。目を上げると、開けた場所に出る。

今では当たり前になった、みんなと遊ぶ場所。
まだカリナもレグナも来てなくて、きょろきょろと見回す。

「今日はだいぶ遅くなるそうだ」
「そうなの…?」

察して伝えてくれるリアスに首を傾げると、手を離して木に凭れるように座ったリアスはうなずいた。その隣にちょこんと座る。

「育てていた薬草が今日が頃合いらしくてな。それを回収してから来るそうだ」
「そう…」

そこで、会話がとぎれた。

「……」
「……」

リアスはあまりしゃべらない。家の沈黙はものすごく居心地悪かったけど、この人のは気にならなかった。

「……」
「……」

さて今日はどうしよっかなって、リアスに近づいてみる。わたしの行動を目で追うリアスに構わず、きれいな金髪に触れた。

「今日はなんだ?」
「遊ぼうと思って…」
「俺でか……」

あきれた目で見てくるけど、わたしが髪をいじり始めたらすぐにどうでもよくなったのか、前を向いて目を閉じた。

わぁ、きれい。

この人ほんとにきれいだな。
笑った顔も目閉じた顔もきれいってどういうこと? これ悪魔とかじゃなかったら絶対女の子寄ってきてたよね。うわぁ村の人損してるな。
優しくてかっこよくて、意外とやってみるとなんでもできる人。すごい人なのに。

なんて思いながら髪をいじってたら、リアスが口を開いた。

「そろそろ諦めたか?」

唐突な言葉に、首を傾げる。
下を見ると、いつもは見上げるリアスの目と合った。

「なにを…?」
「死のうとすること」

言われて、目がちょっと開いて。あぁそういえば、最近ここに来ても思うことなかったなって思い出した。

ここに来た頃は、毎日どうやって逃げ出そうかってばかり考えてた。
愛してくれない世界なんか逃げ出してやるって。

それが、この人たちに逢って、遊んで。
楽しい日々を過ごしていく中で薄れていってた。
ここに来たら、今日はなにしよう。どんなとこに行こうって考えてた。

「忘れてた…」
「それは何よりだな」
「ていうか覚えてても、リアスがずっとそばにいるからどのみち無理じゃない…?」
「だろうな」

そう言って、きれいに笑う。また、胸の中で変な音が鳴った。

それには首を傾げておいて、気になること。

「どうして…?」
「ん?」
「わたし、死にたいって言ってなくない…?」

どうしてわかったの。ふわふわな髪を触りながら聞いたら、「わかるだろ」と返された。

「同じなんだから」

リアスは髪をいじられつつも器用に爪をいじりながら、静かに続けた。

「それに最初の方は妙にぼんやりしていたり俺達から離れてたところに行こうとしたりしていたしな。嫌でもわかる」
「…死なれるのが嫌で、ずっと傍にいてくれてた…?」
「……それもあるが」

一呼吸置いて。

「愛されてないと知ったら痛いと、それでも生きてはいるんだと、出逢ったときに言っていたから」

きっと。

「死にたいんだろうなとも思ったが、生きたいんだろうなとも思った」

だからずっと、引き留めていたと。リアスは、そう言った。

ぱらりと、指から金色の髪がこぼれ落ちる。

どうして、わかったの?

疑問を見透かしてるように、紅い目はこっちを見て笑った。

「未練なんて、たくさんあるだろう?」

未練。

「…あるよ」

それはもう、たくさん。

口は、自然に動いてた。

朝起きて、敬語なんか使わずに、「おはよう」って言われたい。
なにかできたら、「すごいね」って言われたい。
がんばったら、「がんばったね」って、ほめて欲しい。
手を繋いで、色んなところを見たい。
悲しいときは、「つらかったね」って、抱きしめて。
嬉しいときは、「よかったね」って、ほほえんで。

そうやって、

「愛してほしかった…」

”わたし”を見て。
不思議な力なんてないよ。
みんなと同じ、ヒトだよ。

愛されないって知ったら悲しいよ。
愛されてる人を見たらうらやましいよ。

わたしだって、愛されたいよ。

気づいたら、涙が止まらなくて。
リアスはそっと、わたしの目元を拭った。

「誰かの一番になりたい」
「あぁ」
「”ふつう”に、愛されたい…」
「そうだな」

目元を拭ってた手が、頭の後ろに回った。
ゆっくり引き寄せられて、リアスの肩に、頭が乗る。

「クリスティア」

耳元で、リアスの声がいつもより近く聞こえた。

「俺は、俺達は。愛されたことがないから、愛するというのはわからないけれど」

強く、抱きしめられる。

「頑張ったなら、褒める。不器用かも知れないけれど。色んなところが見たいならみんなで行こう。手を引いてやる。悲しいときは、こうやって抱きしめてやる。嬉しいときは、よかったなって笑うから」

だから──。

「そのまま、”死にたい”なんて忘れて。俺を理由に、生きないか」

俺がそばにいるから死ねなかったと、俺のせいにしていいから。
その代わり、全部、与えるから。
俺が、一番お前を愛するから。

「”幸せだった”と胸を張って言えるまで、生きよう」

そう言ったリアスの声は、生きてきた小さな世界の中で、誰よりも優しくて、あったかかった。

溢れる涙も、抱きしめてくれるリアスも、全部あったかい。
心の中が満たされていくような感じ。ときどき鳴る変な音も鳴って、とくとくって鼓動が早い。
これが、なんなのかは、よくわからない。

愛することも、愛されることも、まだわからないけれど。

きっと、こういうことなのかな。
あったかくて、優しいのかな。

もし、生きることで。
わたしが願ったことがひとつでも多く叶うのなら。
いつか、幸せだったって胸を張って人生を終えられるのなら。
こうやって、優しく愛してくれるのなら。

「うん…」

死ぬことじゃなくて、生きること、がんばってみようかな。
このまま、この人の言うとおり、死ぬことなんて忘れて。

相変わらず調子いいなぁなんて、笑いながら。

あたたかい腕の中で、うなずいた。

この気持ちが、愛おしいということに気付いたのは、もう少しだけ先のこと。

『優しいヒーロー』/クリスティア


「あんたたちなんていなきゃよかったのよ!!」

物理的な暴力はなくなっても、言葉の暴力だけはなくならない。

「生まなきゃ良かった…!」

悲痛の声。
前は、ごめんねって思ってた。
生まれてきてごめんなさい。私がいなかったら、もしかしたら兄は幸せだったかもしれない。
そうして、悲しくて、悔しくて。泣いていた。

でもね。

「……ごめんね」

私もう、あなたのためには泣かないわ。

 

 

「泣かなくなったのね」

木に凭れかかっている男にそう言ってやると、睨んでくる。紅い目は鋭いけれど、私は怖くない。

「……レグナはどうした」
「一人で薬草を採りに行ってるわ。危ないからって置いていかれました」

むくれて、木を挟むように腰を下ろす。

「クリスティアは?」
「さぁ。忙しいんだろう」
「そう」

今日は来るのかしら。ぼんやりと空を見上げる。木々は少しずつ茶色くなって、空気は肌寒い。
彼女と出逢って、もう半年は過ぎたかしら。なんて考えていたら、後ろから声。

「で?」
「はい?」
「今日も泣いているのか」

尋ねられて、ぐっと奥歯をかみしめる。
先ほどまで涙が流れていたから、のどは痛い。

「……泣いてないわよ」
「鼻声だぞ」
「うるさい」

細かいことばかり気付く。もう少し泣きやんでからくればよかった。

「また言われたのか?」
「……うるさいわよ」

膝を抱え込んで、顔を埋める。思い出させないで。また泣いてしまうから。

クリスティアが来て、暴力は減った。
けれど、言葉の暴力は、簡単には減らなかった。むしろ増したと言っていい。
水女にさえ聞かれなければ、咎められることはないから。家族からの暴言は減ることはなかった。

それでも、前よりは生きやすくなったけれど。

どうしたって、心は痛い。

つい半年前まで、リアスと二人で泣いていた。声を上げて、目が腫れるまで。

けれど。

「あなたは泣かなくなったわね」
「……」

黙る男に、悔しさを覚えた。
強くなること、先を越されたようで。

リアスのことは、元々あまり好きではなかった。
気が弱くて、男のくせにすぐ泣く。同じ境遇でレグナと仲がよかったから一緒にいただけで、大嫌いだった。
けれど弱くても助けてくれて、涙をなかなか見せないレグナの代わりに一緒に泣いて。
リアスなら、友人として好きだなぁくらいには昇格した。

たぶん、彼は。弱いながらも、私にとってはヒーローみたいだった。

かっこよく助けてくれるヒーローじゃなくて、同じ場所で立ってくれる、心のヒーロー。ちなみに兄は、かっこいい方のヒーロー。クリスティアも。まぁそれはおいといて。

そんな心のヒーローは、最近少しだけ、階段を上がり始めた。

「泣きたくなるときはないの?」
「ないわけじゃない」

けれど、と続けた。

「泣いてばかりではいられないと思っただけだ」

きっとその頭の中には、小さな少女が浮かんでいる。

小さくて、強い女の子。
あの日私たちを助けたその後ろ姿は、今でもしっかり覚えている。

言ってしまえばもう惚れた。
そこらへんの男よりもかっこいいと言ってもいい。

だって自分より大きな男に飛び膝蹴りなんて食らわせられますか?? 私にはできない。

しかもかっこいい上に顔はとてつもなくかわいいと来た。ギャップというのはこういうことを言うのかしら。
そんなかわいい彼女も自分たちと比較的同じ境遇で。
その日からこの場所で遊ぶようになり、彼女のおかげで生活も多少変わり。

そして、ずっと同じ場に立っていた心のヒーローを変えた。

「好きな子の前では、かっこよくありたいものね」

なんて言ったら、後ろで吹き出す音が聞こえる。ざまぁみろ。

簡単に言ってしまえば、リアスもクリスティアに惚れた。
そりゃあんなかっこいい姿を見れば誰だって惚れるわけで。わかりますかっこよかったですよねなんて話してたら、ほんの少しの顔が瞳よろしく紅いことに気付いて、察した。
あ、この男そっちで惚れたな? と。

いいじゃないですか、あなた顔は悪くないんですから美男美女でお揃いですよ、と言うのはなんとか心に収め、それに気付いた日から静かに彼を見守ってみた。

そうして半年経った今。大きな変化が、一つだけ。
リアスは彼女がここに来るようになってから、なるべく情けない姿は見せまいと、次第に泣かなくなっていった。

恋は人をも変えるのかと、帰り道に兄に話したのは記憶に新しい。

幼なじみの変化はとてもよろこばしい。いらつくほど気が弱く泣き虫だった彼が、強く、泣かなくなったのはとてもいいことだと思う。

ただ、ちょっとだけ置いて行かれた気はしてしまった。

泣き虫が、私だけになってしまった気がして。

レグナは元々ほとんど泣かない。私には、見せようとしない。クリスティアも、たぶん普段はそこまで感情の変動は大きくないんでしょう。あの日出逢ったとき以外、泣いたのを見たことがない。
そしてリアスも、泣かなくなっていっている。

かっこいいなぁと思う反面、疑問が溢れた。

どうして泣かずにいられるの? どうして、そんなに強くいられるの。

どうして、そんなに前を向いていられるの。

生まなきゃ良かったなんて言われたら、どうしたって、罪悪感も、悲しさも生まれるじゃない。

「っ、……」

思い出して涙が出てしまう。

「……唐突に泣かれてもこちらも困るんだが」
「泣いてないわよ」
「鼻を啜る音が聞こえる」
「今日ここに来なければよかったです」

いちいちうるさいこの男。目元をぐしぐしと拭って、思いっきり鼻を啜った。

「ねぇ」
「あ?」
「恋愛をしたら強くなれますか」
「お前今日帰った方がいいんじゃないのか」

おかしいぞ、と言われたけれど気にしない。

「……強くなれますか?」

膝を抱えて、尋ねた。
リアスも冗談ではないと思ったのか、息を吐く。

「別に一人くらい泣いている奴がいてもいいだろ」
「その一人はあなたがよかったわ」
「ぬかせ」

その方が絶対おもしろかったのに。
言葉を選んでいるであろうリアスに、また声を掛ける。

「……ねぇリアス」
「今度は何だ」

再び、膝を抱え込んだ腕に頭を沈ませて、つぶやいた。

「私は心が痛いわ」

とても、とても。

生まれたことを咎められて、罪悪感に苛まれて。
とても心が痛いの。泣かずには、いられないの。

みんな強くなっていくのに、私は動けていない。

ねぇ。

「私も強くなりたい」

小さくこぼした言葉は、聞こえているのかしら。

沈黙が続く。
はらはらと落ちてくる葉が、重なってかさりと音を立てた。

「俺は」

そこで、前より少しだけ強くなった声が聞こえる。

「泣くことは、別に弱くはないと思っている」

静かに、その声を聞いた。

「ただ、大事なものを守ろうとしたときに、涙が邪魔だと思っただけだ」

だから、泣くことをやめたと。

救いたいと手を掴みたいのに、泣いていたら霞んでうまく掴めないから。
震えているかもしれない背中を、しっかりと見ることができないから。

「クリスティアやレグナが、お前が、辛いと思ったときに。今度はクリスティアのように。しっかりと前を見て助けたいから。泣かない」

姿は見えないけれど、なんとなく、雰囲気できっとまっすぐと前を向いているんだろうなとわかった。
あぁ、やっぱりすごいなぁと思って。気付いたときには、口から言葉が出ていた。

「……私も、あなたのようになれるかしら」

いつだって弱いながらも支えてくれた、あなたのようなヒーローに。

「かっこよく、みんなを助けられるヒーローになれるかしら」

静かに涙を流して、聞いてみた。
また、しばらく沈黙した後。

「強くなれるかどうかは知らないが」

立ち上がる音が聞こえた。

「お前は、たぶん笑ってればいいんじゃないか」

ぱりぱりと枯れ葉を踏む音がこちらに近づく。

「笑って?」
「俺もクリスティアも、そんなに笑わないし。レグナはお前の笑顔が一番だろ」

影が差して、見上げた。

紅い瞳はいつもと変わらないけれど、あの日のクリスティアを思い出した。
ただ、彼女のように手を差し伸ばすことはしない。私たちには、必要ない。その人は腕を組んで、私を見下ろして告げた。

「笑ってればレグナは笑う。クリスティアだって笑う。それを見たら俺も笑う」
「私の笑顔であなたが笑うことはないのね」
「今更だろ」

そうね、と笑った。

「お前はなんだかんだ笑った顔が似合うんだから」

笑っていればいいんじゃないか。

そう言って、村の方へと視線を向けた。

「クリスティア」

そうして、彼が愛おしいと思っている少女の名を口にする。

口にする?

え、来ていたの?

「待って知らなかったわ」
「安心しろ、今来たばかりだ」

あらそれは安心。じゃなくて。私まだ泣いているわ。ごしごし目元を拭った。

「来たよー…」
「やっほー」

少し痛む目を向ければ、そこには兄もいた。たぶん途中で逢ったんでしょう。二人して手を振っている。思わずぱっと視線を逸らす。
大丈夫かしら。泣いていたことばれないかしら。
わたわたしていると、上から小さな声が落ちる。

「笑ってりゃ笑い泣きしたと思われるだろ」

その手があったか。
自身を映すものなんてないから、指先でしっかり口角を上げた。

そうして笑顔で、再び振り返った。

「待ってましたわ」

にっこりと、楽しげにそう言えば。

「お待たせ…」
「今日もいいの採れたよ」

私の笑顔を見て、彼らの顔もほころぶ。ちらっとリアスを見たら、クリスティアを見て頬を緩ませていた。

リアスの言ったとおりだ。

笑っていれば、みんな笑ってくれる。

人生は、笑えた方が楽しいというのは、クリスティアが来てから知った。
笑顔になると、心も晴れやかになる。ほんの少しの間でも、嫌なことを忘れられる。
不思議な、魔法みたいなもの。

みんなも、同じなのかしら。
辛いことや悲しいこと、少しでも忘れられるのかしら。

もしも、私が笑うことで、少しでも笑顔が増えるのなら。

「今日はなにで遊びましょうか!」

どんなときでも笑えるように、強くなってみせる。

決意して、思いっきり笑った。

『心のヒーローは、自分にはできない強さを教えてくれた』/カリナ


一週間に一度くらいの頻度。
いつもなら妹と行動するけれど、その一度だけは、一人で行動する。

「い”っ」

上の服を捲って、噛んで落ちないようにする。
下を向いて見えたのは、左胸に刻まれた、深い傷。

薬草を添えれば、染みるように痛い。

その痛みに伴って、両親から受ける暴力を思い出してしまう。

あぁ、痛いなぁ。

でも、泣いちゃだめだ。
苦しいって、悲しいって言っちゃだめだ。

俺が、辛いって言ったら。

その苦しみも痛みもすべて、カリナに行ってしまうんだから。

 

 

 

 

「うーん……」

森の中で、いつものように服をたくしあげて傷口を見やる。
化膿してしまったそこは、ぐずぐずと見ていて正直気持ち悪い。
薬草合ってないのかな。
あの両親はとんでもなくどうしようもないやつらではあるけれど薬師で。そいつらをずっと見てなんとなくの治療とかはできるようになった。

だからこの薬草も合ってなくはないんだろうけども。

「やっぱ傷が治る前に開くのが原因かなぁ」
「傷、ひらいちゃうの…?」
「そりゃ結構動くから──」

そこまで言って、バッと後ろを振り返った。
今では見慣れた水色の髪。それを揺らして、少女は首を傾げている。

「…なに、してるの…?」
「いや、それは俺のセリフかな?」

なんでこの子はここにいるかな。さすがに同い年とはいえど女の子に肌を見せるのはよくないだろうと、薬草がとれないように強めに押しつけて服をおろす。
後ろの少女に向き直るように座り直した。

「どしたのクリス。ここ、普段通らない場所でしょ?」
「それはレグナも一緒…」
「俺は薬草採ったりしに行くからよく通るんだよ」

せっかく穴場だったのに、っていうのは伏せておいた。

村のすぐにある森は、結構広い。村から入ると、俺たちがいつも行く場所には一本道だから気付きにくいけど、実は村の何十倍もの広さがあったりする。その大半は他種族の縄張りも入ってるので、俺たちが自由にできるのはたぶん四分の一くらい。それでも子供の足じゃ一日かかってやっと一周できるくらいの広さはあると思う。
何故俺がそれを知っているかと言えば、薬草摘みにあちこち移動するから。縄張りに入らないように気をつければ自由に動けるし、自由に薬草も採れる。なので基本カリナと、週に一度くらいの頻度では一人で、こうして普段の一本道とは外れたところにいる。

「カリナは一緒じゃないの…?」

目の前にちょこんと座り込んだクリスティアには、曖昧に笑った。

「今日はね。たまーに別行動してるよ」
「もしかして、これ…?」

あ、この子意外と目敏いな。
スッと指さされたそこは、さっき俺が手当していた部分。

そう、一週間に一度、妹と別行動するのはこの手当のため。

クリスティアが来てから半年近く。それまでずっと頻繁にあった物理的な暴力は、あっさりって言葉が似合うほどなくなった。
けれど、長年受け続けてできた傷というものはなかなかふさがらず。
あの二人よりも多く受けた俺は特に。

「……他のはだいぶなくなったんだけどね。腕とか」

目の部分、足の部分。痣で痛々しかったそれらは、だいぶきれいになってきた。俺こんな肌してたんだなって知ったのは記憶に新しい。

「ここは、まだ…?」
「一番深くて化膿しちゃってるんだ」
「かのー…」
「ちょっと悪いものが入ってる状態」

そう言ったら、クリスは悲しそうに顔をゆがめた。
あぁ、失敗した。そんな顔させたいんじゃないのに。

「すぐよくなるよ。俺が色々動き回るから、ちょっと治り悪いだけ」

笑って言うと、そう、って少しだけ安堵した顔になる。それに、俺も安堵した。
傷に指をさしていたクリスは手を下げて、小首を傾げる。

「いたくないの…?」
「痛くないよ」
「うそ…」

即答ですかと苦笑いすると、深い蒼と、目があった。心配そうなのに、どこか見透かすような感じ。
見つめていられなくて、目をそらしてしまう。

「……嘘じゃないよ」

そう、嘘じゃない。

「いたいよ…?」
「痛くない」
「いたい…」
「痛くないっ」

少し躍起になって語気が強くなる。見上げてくる深い蒼を思わず睨んだ。

けれどそれに怯むことなく、彼女は「じゃあ」と口を開く。

「どうしてレグナは、ずっと痛そうなの…?」

止まってしまった。彼女の言葉に。
俺が? 痛そう? 痛くないよ。

そう、痛くない。
痛みなんて、捨てた。なんて言うとなんか十四歳前後の人たちを指しそうな言葉が聞こえそうだけど。
でも、捨てた。痛くないって思えば、どんなに殴られても痛くなかった。

なのに、彼女に言われて、傷口が痛い気がするのは、どうしてだろう。

「レグナは、痛いとか、苦しいとか、言わないの…?」
「……言わないね」
「どうして…?」

見透かすように、聞いてくる。
やめてよクリス。

「泣かなくて、大丈夫なの…?」

やめて。

「辛く、ないの…?」

──辛いよ。

でも、

「……つらく、ないよ」

俺は言っちゃだめだ。

「俺そんな辛そうに見えてた?」

だって俺が言ったら。

「疲れてただけじゃない? 最近薬草よく採りに行ってたし」

すべてはカリナに行ってしまうんだから。

だから、俺は。

「なん、も……っ、」

辛くないよ。
そう言おうとしたのに。口からは言葉が出なくて。
代わりに、涙が出てきてしまっていた。

それを、クリスティアはそっと拭う。

「レグナ、泣いたとこって見たことない…」
「たまには泣いてたよ」
「苦しいとか、痛いって、聞いたことない」
「……」

小さな手が、溢れてくる涙を拭う。

「たまには、よくない…?」

──泣いたって。
ふわりと笑いながら首を傾げる少女は、出逢ったときと同じ、ヒーローのようだった。

辛いときに現れて、颯爽と敵を打ちのめしてくれる。
また、助けてくれるの?

「俺、前に助けてもらったお礼もしてないのに。クリスに甘えてばっかいられないよ」

鼻声で言えば、彼女は蒼の瞳はぱちぱちと瞬かせる。それはそれは不思議そうにして。

「わたし、今助けてもらってるよ…」

なんて言われてしまった。

「助けてなんかないよ」
「助けてもらってるよ…? だって」

わたし、今とっても楽しいんだもん。

「みんなが一緒に遊んでくれるから…どんなに家が嫌でも、みんながいて、笑い飛ばしてくれるから」

だからねって笑う彼女の目は、とても優しい。慈しむ、っていうんだろうか。

「ちょっとだけでも、お礼、したいなって…」

レグナが辛いなら、助けたいな、って。

そう言う彼女の、頬に伸びていた手は頭に移動して、ゆっくりと、ゆっくりと撫でる。
頭を撫でられたの初めてだなぁなんて的外れなことを思いながら、目の前の少女に、体重を預けていった。
肩口に頭を乗せる。

「……独り言」
「ん」
「ちっちゃい頃から、カリナのこと、ずっと守りたかったんだ」

ぽつり、ぽつりと話始めた。

小さな村。
そこで生まれた俺たち。互いを分け合ったようなオッドアイは、自慢だった。
生まれた頃は周りのことなんてよくわかんなくて、とりあえず隣の女の子が笑っているのが嬉しかった。

自分の家庭が変だって気付いたのは、そう時間は経っていなかったと思う。

こちらを見る両親の目はどう見たって愛情を持っていなかったし、時折投げつけられるものも、俺とカリナが互いに戯れでするような勢いなんかじゃなかった。
なんてところに生まれてしまったんだろう。幼いながらにそう思った。こんな親の血を、自分たちも引いているのか。それに嫌気がさしていた。

けれど。

変わらずに隣で笑う少女は、そんな血なんてないんじゃないかってくらい、元気で、純粋に笑っていた。
俺の手を引っ張って、あっちへ行こう、こっちへ行こう。今日はこんなのが楽しかったね。
明日は、どんな楽しい一日になるんだろうね。

そう言ってくる妹は、俺をあんな嫌な場所から救いだしてくれるヒーローだった。

いつだって守ってくれる妹を、今度は守りたい。
そう思い始めた頃から、本格的な暴力が始まった。

痛そうに顔をゆがめて、悲しい、痛い、って大泣きをして。大好きな笑顔は減ってしまって。笑うにしても、無理して笑顔を作っていくようになった。
それが、本当に辛かった。

せめて肉体的な痛みだけは減らしてやりたくて。
カリナをずっと庇った。投げてくる家具も、振り上げてくる腕も、すべてこの身に受けた。

痛くて、辛くて、苦しかったよ。

「でも、俺が辛いって言ったら、今度はカリナに行くだろ」

ただえさえ、母親から「いなきゃよかった」と言われて心を痛めているのに。

「それ以上辛い思いなんてさせたくなかった」

だから。

辛いなんて言わない。苦しいなんて言わない。俺が言わないことで、カリナがまた笑ってくれるなら。

こんな口縫ってでも、弱音なんて吐くものか。

「……なんて思ってたのに、クリスのせいで吐いちゃったじゃん」

苦笑いを浮かべて、そんな風に言ってみる。
そうしたら、肩が揺れた。笑ってる。

「たまにはいいじゃん…。傷って、悪いもの出さなきゃ治らないんでしょ…?」
「そうだね」
「レグナも悪いもの出さなきゃ」

ね? と優しい声で言ってくる少女に、久しぶりに涙が溢れた気がした。

「……今日だけな」
「いつでもいいのに…」
「やだよ」

笑って言うと、クリスも「えー」と笑う。
鼻を啜りながら、そろそろ服に浸透してしまうと顔を上げた。

出逢った頃のような、優しい目と合う。

「ありがとクリス」
「どういたしまして…すっきりした?」

聞かれて、胸のあたりを触ってみた。ずっともやもやしていた感情はない。

「うん、だいぶ」

そう言うと、クリスティアはまた笑った。
それに笑い返して、立ち上がる。

「そろそろ行こっか。カリナが置いてかれたって機嫌損ねちゃうわ」
「うん…」

歩き出すと、クリスティアも立ち上がってついてくる。
道すがら、あと一つだけクリスティアに言おうと、隣にやってきた彼女に口を開いた。

「俺ねぇ」
「ん…?」
「クリスが、俺たちがいてくれたからって感謝してるように、俺もクリスに感謝してるんだよ」
「なぁに…?」

見上げてくる少女の頭を撫でる。

「クリスが来てから、カリナがよく笑うようになったんだ」

俺がずっとずっと守りたかった、純粋で、満開の花のような笑顔で。

「ずっと無理して笑ってたカリナが、ほんとに楽しそうに笑うようになったんだ」

今日は何して遊ぶ? こんなことしてみたらどうかな。今日はとても楽しかったね。明日はどんなことをしようかしら。

その日のことを、明日のことを。あの頃のようにまた話すカリナが本当に嬉しかった。

だから。

「ありがとうクリスティア」

彼女の笑顔を取り戻してくれて。
俺に、大事な妹の笑顔をもう一度見せてくれて。

目線を合わせて、微笑んで言うと。
クリスティアは少し瞬いてから微笑む。

「どう、いたしまして…?」

そして、たぶんどうしてお礼を言われたのかがわかってない彼女は、疑問系でそう言った。

それに思わず吹き出して。

再び、森の奥へと歩き出した。

『かっこいいヒーローは、いつだって助けてくれた』/レグナ