いつかの君と、今度こそ笑い合えるように。

 旅行を終え、交流武術会を終え。ばたばたとしていた気持ちもようやっと一段落した、八月最後の週。

「……」

 涼しい室内。膝に少し体温の低い恋人が頭を乗せてさらに心地良いリビングで、手に持った小説のページをめくっていく。

 文字に目を走らせていれば、下でぱらりとページがめくる音。

 二人きりの空間で、紙のこすれる音だけが聞こえる。

 いつもなら、本に集中してまた新たな知識をつけようといそしんでいただろう。

 けれど。

「……」

 気持ちがようやっと一段落したはずなのに、どこか心が落ち着かない。文字を追って行くも、あまり鮮明に内容が入ってこない。

 妙に、拾ってしまうもの以外は。

「……」

 普通の推理小説のはずだった。主人公が相棒である女と問題を解決していくというただただ単純な話。の、はずなのに。

 目がいくのは、推理を暴く巧妙な技でも、登場人物の過去話でもない。

 何故か入っている、相棒との恋愛話。

 別にいいんだ、よくある話だろう。長年付き添ってきたパートナーといつの間にか愛が芽生え、最終的にゴールインなんていうのも別にない話じゃない。
 問題はその濃さだ。これは恋愛ものだったかと思いたくなるほど割と濃厚に入っているのがいただけない。

 キスだハグだそれ以上を匂わせる描写だ、何故今日俺はこの小説を選んでしまったのかという後悔しかない。普段ならば大丈夫なのにいささか妙な気持ちになってくる。クリスティアが膝の上に頭の乗っけているのでそういったことだけはどうにか避けたい。

「……はぁ」

 これはもう閉じるしかないだろうと、溜息を吐いて。一瞬、最後に目に入った一文だけを記憶に残しながら、本を閉じた。

 ソファにもたれれば、小さな声が下からかかる。

「つまんなかった…?」

 目を向けた先には、本を胸元まで下げて俺を見上げる恋人。愛おしい恋人のを頭をなでながら、緩く首を横に振る。

「気分が乗らなかった」
「そ…」

 めずらし、と言葉をこぼして、恋人は俺のそれで集中力が切れたのか、おもむろに起きあがって冷蔵庫の方へとことこ歩いていく。菓子でも食うんだろう。俺もコーヒーでも飲むかと、その小さな背を追った。

「♪、♪」

 嬉々として冷蔵庫の中を探る恋人。ちらりと横を見やれば、目の前の菓子に気が行っているのがよくわかる。

 若干悔しいと思ってしまうのは、仕方のないことだろうか。

 あの旅行のとき。キスをしたいと言って、甘く誘惑してきて。タイミングが悪かったとは言えど旅行中で二回もお預けを食らい。

 しまいには、頑張るという意気込みと、待つ必要はないという許可までいただいた。あの一週間で一気に進歩したと言ってもいいだろう。こちらとしては大変喜ばしいことである。

 が、同時に旅行から帰ってからさらに気が気じゃない。恋人と一つ屋根の下。学校もなく、四六時中一緒にいる。正確には俺の体内にリヒテルタもいるが、あいつはクリスティアとの同棲が決まった瞬間に「二人の時間の邪魔はしたくない」と言って魔力以外のすべてをシャットアウト中。つまりは結局二人きり。
 ましてや。

「……」

 こうして飲み物を作っている間、菓子を選び終わったクリスティアがぴたりと俺にくっついてくるという無防備さ。旅行が終わって数日経ってからいつもどおりになった彼女がこの一週間弱で見せた無防備さは数知れず。

 いつものように腹の上に乗ってくるわ、さっきのように膝に頭を乗せているとき、腹に抱きついてあまつさえすり寄ってくるわ。

 こいつは悪魔か。

 あまりの無防備さに帰ってからやろうと思っていたことも先延ばしになるわ。思い返しただけで溜息が出てしまう。

「…?」
「なんでもない」

 首を傾げたクリスティアに「原因はお前だ」と言ってやりたいが、飲み物の用意ができて二つのマグカップを持って歩き出したとき、嬉しそうに服の裾を持つ彼女がかわいくて胸が鳴るのも確かで。
 こうして甘くしているから何事も進まないとわかっていつつ、結局。

「♪」

 ことりとマグカップを置き、ソファに座った俺の膝の上にちょこんと乗る子供のようなクリスティアに、絆されてしまう。

「……お前は本当に小悪魔だな」
「?」
「こっちの話だ」

 こいつが小悪魔なのか俺がへたれているのかは置いておいて。
 クリスティアがチョコスナックの袋を開け、俺に一つ差し出してきたのでひとまずそれを口に含む。苦手な甘さが広がるも、変な味がしないことだけは確認し、頷いた。

 そうすればクリスティアは袋からまたスナックを取り出し、小さな口に放り込んでいく。正直何がそんなにうまいのかだけは理解しかねるが、好みは人それぞれなのでコーヒーで口直しをした。

「♪」

 その間にも嬉々と口にチョコスナックを放り込んでいくクリスティア。その姿が大変かわいい。ソファの背もたれに片腕を預けて、しばらくその様子をぼんやりと見つめる。

「……」

 そう、ぼんやりと見つめつつも。人間割と思考はなかなか完全にシャットアウトできないもので。ふと、先ほど残った本の一文が頭によぎった。

 ”私が、彼女に口づけをしたくなる瞬間だ。”

 妙にキスだ口づけだそれ以上だという言葉ばかり拾ってしまう中で、一番頭に残った一文。

 恋人に、キスをしたくなる瞬間。

 そりゃ男なら好きな女にキスをしたくなる瞬間くらい一度は経験したことあるだろう。
 普段抑えているだけで俺にだってある。

 たとえば、今とか。

「…!」

 思った瞬間に体が動き、彼女が持っている袋から一つ、スナック菓子をつまむ。

 それをそのまま、クリスティアの口元へ運んだ。

「あー…」

 そして恋人は、なんのためらいもなく。小さな口を開けて、それを求める。そっと、指先だけ唇に触れるように口に入れてやって。

 視線は、自分の指へ。

 俺の少し高い体温で溶け、指先についたチョコ。

「クリスティア」

 それを、再び口元へ持って行ってやる。

「ん」

 俺に従順な恋人は。

 また何のためらいもなく、ぺろりと指先についたチョコを舐めた。

 こくりと喉が鳴ったのは、きっと聞こえていないだろうと信じて。

 指先についたチョコを舐めとる姿を見つめる。

 小さな舌先で舐めていく姿は、若干”そういうこと”を思わせるような色気があって。

 舐められている手で彼女を引き寄せて、そのまま、唇を塞ぎたくなる。

 ぷはっと息を吐きながら指から口を離して、甘さを堪能するように舌なめずりするのも、たまらない。
 その唇を親指でいつものように辿って。

「……なぁ」

 言葉を、こぼす。

「なぁに…」
「キスがしたいんだが」

 その瞬間に、ぴたり。恋人が止まった。
 そうして、俺の言葉を理解した恋人は、わたわたと慌てだす。

「な、に…急に…」
「この話題はもう急にではないだろう?」

 逃げようとする恋人からスナック菓子を取り上げて、こういう真剣な話のとき威圧を与えまいと、いつものようにソファに膝立ちにさせ蒼い目を見上げる形にしてやる。

「待つ必要はないと、言っていたもんな」
「言ったのは、わたしじゃなくて…」
「頷いたろう?」

 な、と。背を促すように叩いてやれば、恋人は小さく頷く。

 困ったように眉を下げて、視線をうろうろとさせながら。

 正直この表情もたまらないのだが、今は置いておいて。

 本題へ。

「……まぁ、しようとは言ったがいきなり口にではなく」
「…?」
「クリスティア」
「はぁい…」
「行動療法をしてみないか」

 その言葉に、先ほどの照れや困った雰囲気が嘘のように、きょとんとした顔になる。いつものようにこてんと首を傾げ。

「りょーほー…?」
「苦手なこと、怖いと思っていること……それを、段階を踏んで克服していく方法」
「…」
「お前で言うなら、キスも、それ以上も。段階を踏んでできるようにしていくこと」
「ん…」

 なるべく彼女がわかりやすい言葉を選んで行けば、理解はした様子。そうして数秒、また首を傾げる。

「口は、いいの…?」
「このままその口に口づけしたいのは山々だが、次の寸止めは正直我慢できそうにない」

 クリスティアの頬が、赤くなる。……なかなか直球なことを言っているがこれは平気なのか。

 旅行も含めて少しずつわき上がっている疑問には今は蓋をして。

「ひとまずやっていくことの説明に入っても?」
「ん」

 頷いたのを確認して、レグナから言われた方法を。

 実践していく。

「まず、どこでもいいから端から」

 腰に添えていた手をクリスティアの口元へ持って行き。

「んむっ」

 指先を、ちょんと小さな口へ触れさせる。

「お前の気持ちがもう無理だと思うところまで」
「、むっ?」

 指先から上に上がるように手を動かし、指の第二関節、第三関節、手の甲を同じように彼女の口に当て。

「これを、なるべく毎日。次やるときも」
「んっ…」

 指先に戻して、唇に触れた。

「こうして端から。お前が平気だと思うのなら」

 また手の甲まであげていき、次は手首まで彼女の口に触れさせる。

「一個ずつ進んでいく……わかるな?」
「ん…」
「これを、俺がお前にしていく。毎日少しずつ、唇に向かっていくように」

 柔らかい感触に心音が高鳴っているのはなんとか聞かないフリをして。

「……やってみないか」

 伺うように、クリスティアを見上げた。

 蒼い瞳の中には、ほんの少しの期待と、不安。返答に迷っているように瞳をうろうろさせるクリスティアの頬に、手を伸ばす。

「……怖いか」

 問いに、小さく頷いた。

 そうして、小さな口から、こぼす。

「…”初めて、することは…やっぱり、こわい…”」

 本来の理由ではない、彼女が”作り上げた”理由を。

 俺だって怖いと、喉から出掛かった言葉はなんとか飲み込んだ。彼女に言ったところで、首を傾げられることはわかりきっていることだから。

 お前に拒絶されるのが、忘れられるのが怖いと。

 それでも、今自分が危ないところにいるのも確かで。我慢ができなくなって結果あいつと同じことになるのだけは本当にごめんだ。

 だから。

「……クリスティア」
「…」

 頷いて欲しいと願いを込めながら、ゆっくり、甘く。堕ちてくるように優しくこぼしていく。

「俺は触れ合いが増えればもっと嬉しい」

 今、これを使うのはずるいとわかっているけれど。

「お前だけができる”特別”が増えたなら、もっと愛されているとわかる」

 蒼い瞳が緩く開いていくことに、罪悪感はある。

「一緒に、やっていかないか」

 ただ、これだけはどうか許して欲しいと、誰に言うでもなく許しをこうた。

「…」
「クリスティア」

 促すように名を呼べば、彼女はそっと、俺の首に腕を回してくる。

「ほんと…?」
「……」

 泣きそうになりながら、クリスティアは俺にすり寄ってきた。

「うれし?」
「あぁ」
「…口にじゃなくてもほんとにちゃんと、伝わる…?」
「……伝わる」

 強く抱きしめてやれば、安心したように息をついた。

「じゃあ、」

 そうして、緩く、体を離す。

 まだ少し不安そうな恋人は、それでもしっかり俺を見て。

「…やって、みる…」

 細く、小さな右手を差し出してきた。
 少しだけ、今すぐにと予想ができていなかったので心臓が高鳴る。

 けれど彼女がせっかく勇気を出したのだからと、すぐさま、手を取った。

「……」
「…」

 白いきれいな指先。

 あぁこれから、「キス」という意味で。彼女に触れるのだと思うとどうしたって緊張した。
 触れ合いが許される。そういった行為を。心なしか手がふるえているのは、心臓が大きくなっているからだとわけのわからないいいわけをして。

 彼女が嫌な目をしないように気をつけながら、そっと、口を近づけていった。

 耳元で心臓が鳴っているような錯覚に陥るくらい、心音がうるさい。クリスティアの手を持つ自分の手に力が入る。近づくほどに、クリスティアの手も力が入っているような気がした。

「……」

 唇でもないのに初めてというものはこうも緊張するものかと、喉を鳴らして。

「…っ」
「、……」

 その、人より冷たい指先に。

 口づけをした。

 たったの一瞬。爪のあたりに、軽く触れるだけ。そうしてぱっと、体を離す。同じく離そうとしたクリスティアがソファから落ちないように腰を支えるのは忘れないようにして。

「……」
「…」

 けれどお互い視線は合わせられぬまま、沈黙が走る。

 聞こえるのは心音と、どこか遠くに聞こえる時計の針の音。

 どのくらい経っただろうか。数時間にも感じられるその沈黙は、俺から破った。

「……夜」
「…」
「眠る前に、しようと思っているんだが」

 ちらりと見上げた先には、俺とは反対方向に視線を逸らしているクリスティア。

 彼女はまた視線を困ったようにうろうろとさせた後。

「…」

 小さく、頷いた。

 心の中で舞い上がりそうになってしまうのはなんとか表には出さず。

「!」

 ひとまず熱を引かせるために、ほんの少しぬるくはありつつも俺より体温の低いクリスティアの胸に埋まった。

 どうしようもなく不安もあるけれど。

 やり方を間違えず、正しい道で進めれば大丈夫だろうと。

 今だけは、触れられた嬉しさをかみしめて、クリスティアを抱きしめた。

『この綱渡りの先に、あの日の続きがあると信じて』/リアス


 早いもので夏休みも最終日。
 エシュトには宿題も何もないので追われることはなかったはずなのに、小学校とか中学校のときよりさらにバタバタしていた気がすると、振り返ってみて思う。
 そして来月は文化祭があって、十月からは武闘会なるものもあって。

「リアスも気が休まらなさそうだな」

 なんて、今は隣にいない親友に苦笑いをこぼした。

 そんな夏休み最終日の本日、俺はというと。

 日も高く暑い中、これまた暑いとわかっていつつもヘッドホンをつけて外を歩いています。

 向かっている先は、日本に来てからお気に入りになりつつあるゲームショップ。西地区にそびえ立つデパートを少し先に進んだ、ちょっと隠れ家的なとこにあるお店。

 中古も新品も扱ってて、たまに掘り出し物があって。しかも店内放送で新情報だけでなくときたまおもしろいゲームの小ネタ情報も流れてくることがあるというなかなか面白いゲームショップで、こうしてときどき足を運んでいる。夏休みは予定も多かったしクリスの義父さんからもらった試作ゲームで終わるかなと思ってたけど、予想以上にそっちも面白くて昨日の時点で終わってしまった。

 感想を送るのは帰ってからにして、まずは新しいゲームを。日陰に入って涼しくなった道を歩くこと数分。割と真新しい外観のゲームショップにたどり着いた。

 情報は逃せないので音楽を切り、ヘッドホンは首にかけて涼しい店内に入っていく。

 真っ先に耳に流れてきたのは次の新作ゲームの紹介。九月に待望の新作だとか、あの監督の続編だとかを聞きながら、店内を端から見ていく。

 せっかく来たのだからと店内を一周するのはもう癖。
 入って右手側にある新作ゲームを流し見して、軽く汗を拭いながら奥へと歩いていく。

「お」

 棚に、クリスティアの義父──アシリアさんのゲームを見て思わず手に取る。これ試作だいぶ前にやらせてもらったけどおもしろかったんだよな。よくあるRPGものなのに展開が読めなくて。せっかくなら買ってこうか。たぶん「あの試作のやつ出てましたよ」とか言うと問答無用で新品送ってきそう。

 まず一つのゲームを手に持って、めぼしい新作はもうないかなとさらに奥へ。
 店の左側に置いてるのは、新作と同じくらいの量の中古ゲーム。どちらかというとこっちの方が楽しみで、宝探しのような気分で足を踏み入れた。

 RPGは一個買うから流し見でいっかな。──あ、でもこのゲーム懐かしい。シリーズ今二十作くらい出てるやつの第一作目じゃん。うわぁ超ハマったなぁこれ。珍しくリアスとかもハマってさぁ。四人プレイしてみんなで家捜し大会やったっけ。やばい超やりたい。でもこれやるとなるとゲーム機本体から行かなきゃか。繰り返しが進むとゲームは「君いくつ?」って言われやすいから最後の年で売っちゃうんだよな。アルバムとかは折を見てそっと本棚に入れられるからいいんだけど。

 えぇどうしよう。でも一作目やると新作まで通してやりたくなる。四人で家からまじで出なくなりそうなんだよな。さすがにそれはいただけない。

「……」

 でもちょっと欲しい。買うか否か。睨み合いの攻防をすること数分。

「……保留にしよう」

 一旦、そう一旦保留に。このゲームは一回みんなで相談だ。買ってしまったらやり始めてしまうのでみんなに相談。そうしよう。後ろ髪引かれつつもRPGコーナーから逃げるように出て。

 隣のアクションゲームコーナーに足を踏み入れたところで。

「……ん?」

 なにやらでかい帽子をかぶった子が目に入った。猫耳を模したようなでかい帽子。後ろ姿だけどちらっと見えるピンクのグラデがかった横髪。

 あ、俺あの子知ってる。

 そっと、近づいていって。

「雫来?」
「えっうわ、ひゃぁ!?」

 思った以上に大きく出させてしまった声に思わず耳を押さえてしまった。

「ごめん驚かせたわ」
「あ、ぃ、いえ!」

 謝りながら、振り返るその子を改めて確認。帽子を深く被る仕草、ちょっとおどおどしたしゃべり方。体育祭で逢った雫来だ。

「偶然だね」
「ぇ、あ、えっと……」

 帽子を被ったことで落としていた視線を、雫来はゆっくりとあげていく。

「あ、」

 そうして、体育祭では隠れてよく見えなかった、顔。

「ぁ、な、波風、君だ」

 初めてしっかり見るその顔もきれいだけれど、彼女の瞳に、止まった。

 キラキラしていて、時折光の反射で見える一つの模様。

「……雪……」
「え」
「え、あ」

 思わずこぼしてしまった言葉に、ぱっと口を塞ぐ。何言ってんだ俺。雫来びっくりしてんじゃん。

「ごめん、いや、そのー……目の中に、雪の結晶があるみたいに、見えて」

 なんで俺こんなしどろもどろになってんだ。いやそりゃ女の子にいきなり雪だなんだと口走ってしまったら俺だって焦るよななんて言い訳をして、雫来をそっと伺うように見る。

 きょとんとしていた彼女は、ようやっと。
 納得した顔になった。

「ぁ、ああ! 目の中ですね……! ぁの、雪女の、特徴で……」
「あー」

 ひとまず悪い印象ではなかったようで、ほっとしながら笑う。

「……」
「……」

 けれどそこから珍しく言葉が出ずに、沈黙。聞こえるのは店内放送だけ。

 あれなんでこんな言葉出ないんだっけ。普通に喋ればいいのに。

 言葉が、妙に詰まる。

 目をうろうろさせながら、黙ることしばらく。

 口を開いたのは、雫来だった。

「な、波風君も、ゲーム、するんですか?」
「え」

 体育祭の時とは違ってまっすぐ見てくる目に、あー、と俺が目をそらしながら、頷く。

「そう、なんかこう、暇つぶしで始めたらハマっちゃって」
「ちょっと意外です、放課後とかは友達とおでかけしそう」
「結構インドアだよ」
「ふふっ、やっぱり、ぃ、意外です」

 雫来が話しかけてくれたおかげで変わった空気に心の中で感謝して、お互い棚に向く。

「どんなゲームするんですか?」
「結構なんでもやるかな。古いのも新しいのも」
「ぁ、そうなんですね……私アクション系が結構好きで」
「それは意外」
「そ、そうですか? あ、でも他のジャンルも、す、好きですよ。RPGとか、今は音ゲーもやりますし、ソシャゲも、いろいろ……」

 相づちを打つ前に、雫来が「あとは」と棚に向かって続ける。

「オンラインゲームとかも、その、楽しいですよね。チャットとか……今結構ハマってるのがあって」
「うん」
「いろいろゲームやったりしてるとイベント被ったりで、た、大変だったりしますよね」
「あーそうね」
「来月やりたいRPGも出るし、で、でも文化祭もあるしで……ちょっと困ってます」
「あは、わかるかも」

 なんて返しながら、心の中で思う。

 雫来すげぇ喋るな??

 びっくりするくらい喋って相づち返すのが精一杯なんだけど。この子こんなに喋る子だったんだ。あのときはやる気は結構あるんだなくらいにか思わなかった。そもそもそこまで喋る時間もなかったから元からこのくらい喋る子だったのかもしれないけれども。

 なおも続く雫来のゲームの話に正直驚きを隠せない。

 あまりにも続く雫来の独り言のような話に、耳を傾けるつもりで見つめたら。

 視線に気づいたのか、こっちを見る雫来。

「……」
「……」

 数秒の沈黙の後。

 ハッと、我に返ったご様子。

「ご、ごめんなさい、こんなべらべら……!!」
「あ、いや、それは大丈夫。ちょっとびっくりしただけ。意外と喋るんだなって」

 気まずくならないように笑ったら、雫来は癖らしい、帽子で顔を隠すようにうつむいてまた「すみません」とこぼす。

「な、なかなかゲームの話できる人っていなくて……つい、ぅ、嬉しくなって……」

 恥ずかしそうに言う雫来に、どことなく新鮮さを感じる。いやうちの女子ってこういう恥じらいないからすげぇ新鮮。ときめくというのはこういうことかと思うくらい。

「うちの女子たちにも見習って欲しいわ……」
「な、なにがですか?」
「その雫来の恥じらいというか、女の子らしさ」
「ぇ、ひょ、氷河さんとか愛原さん……女の子らしいじゃないですか……?」
「あいつらは女の子という皮を被った男前たちだから」

 とくにクリスティア。あの男前さは逆に肝が冷えるレベルだけれども。
 そうなんですねって驚いている雫来に、親友はいつも大変だよななんてから笑いして、話を戻す。

「そういえば、今日はめぼしいゲームはないの」

 なんも持ってないけど。そう彼女の手を指さしながら言えば、首を横に振った。

「逆です、欲しい物が、ぉ、多くて……迷っているところで」

 そうして「これとこれなんですけれどね」と、迷っているらしい三つのソフトを棚から取る。
 まず一つ目。がたいのいい男の人がパッケージに映ったやつ。

「この無双系ゲーム、や、ったことはないんですけど……この監督さんのがおもしろくて」

 二つ目、さっきのとは全然違って癒し系三頭身のヒト型がいるソフト。

「こ、これは対戦型で、この作家さんが好きで悩んでて、」

 最後に三つ目、少年系マンガに出てきそうな男の子がいるソフト。

「最近ハマってるマンガ……ちょっと昔のなんですけど、そ、それのゲームで……どれにしようか、ぃ、今迷ってるとこなんです」
「どれも面白そうだけどね」
「そ、そうなんです……どれかは次回にしてもいいんですけど、も、もしかしたら次巡り逢うかわかんないし……!」

 ここ結構売れるのか入れ替わりが激しいんですよとか、そのまままた悩んでるゲームの話へ。この監督さんクオリティが高くて何やってもあたりが多いとか、この作家さんは元々マンガ描いてるヒトでとか、あのマンガ、中学生くらいに流行ってそのときは全然ハマってなかったんだけどとか。

 びっくりするくらいいろんな情報をくださる。

 聞いてないことまで丁寧に話してくれる雫来さん。大丈夫? 学友とは言えど逢って二回目の男にそんな情報いっぱい言って大丈夫?
 なんか心配なってきたなこの子。

 ちらりと横目で見たその子は、楽しそうに話してて。咎めるのがはばかられる。

 その間にもハマってるマンガのここがすごくてだとか、ゲームは振動付きでリアリティがあるだとか。

 聞きながら、どこか懐かしさがあった。

「……」

 あぁそういえば、昔も、なんて。今はほとんど思い出すことのないヒトが思い浮かぶ。

 どうでもいい情報ばかり喋って、その顔はいつも楽しげで。

 月、みたいなヒト。

 瞳にきれいに浮かぶ二つの満月。優しい微笑み。
 隣の子は、雪のような、あの人とは相反する真っ白い子なのに。

 何故か、重なる。

 蓋をしてた想いがほんの少しだけこみ上げて、無意識に、手を伸ばした。

「波風君?」
「!」

 それが、細い声で止められる。

 ぱっと見たら、雪を瞳に浮かべるその子が、不思議そうに俺を見てた。白い頬に触れそうなとこに、俺の手。

 やってしまった。
 これはギリセーフか。

「……ごめん、なんかその、えーーーと」

 重なったその人が目の前にいるようで、言葉が詰まる。うまい言い訳が見つからない。こんなときカリナがいてくれればなにかしらできたのに。

 けれど今日はいないので。

 必死で頭と目を動かす。なにか、なにかないか。

 そうして、目に入ったものは、

 雫来の手の中に収まる、三つのソフト。

 これだ。

「げ、ゲーム」
「え」
「よかったら、その、か、貸し借りしない?」

 あまりにもテンパってしまって言葉がどもってしまったのは見逃して欲しい。なんとか笑みを張り付けて、驚いてる雫来に今度は俺が喋ってく。

「なんかあの、雫来の話聞いてたら俺もそのゲームやりたくなってさ。雫来がよかったらこう、俺がそのどれか買うから、あとで貸し借りなんて」

 どうかなー、なんて。

 最後の方は若干声が小さくなっていってた。さすがに逢って二回目のやつに貸し借りしようなんてまずかったか。でもそれしか話題なかったし。これがなかったらあの手はどういうことですかってなりそうだし。

 沈黙は少しの時間のはずなのに、妙に長く感じる。どっちでもいい、とりあえず何か言葉が欲しい。正直断ってくれても全然かまわないので。

 妹よろしく人当たりのいい笑みでいれば、ようやっと、雫来が口を開いた。

「い、」
「……」
「いいん、ですか……?」

 まじかよOKですか雫来さん。

 俺の驚きなんてつゆ知らず、雫来の顔は輝いている。

「げ、ゲームの話できるヒトが現れただけじゃなく、か、貸し借りもできるなんて……!」
「雫来、言っといてなんだけどもうちょい危機感あってもいいと思う」
「波風君は大丈夫です!」
「どっから来たのその自信」

 この子すげぇ調子狂う。
 そしてキラキラした目を向けられるのが嫌ではないんだけど妙に居心地悪い。クリスティアで慣れてるはずなのに。
 逃げるように、咳払いをして。

「で? 雫来はどれ買うの」
「あ、えっと」

 話題を戻してやれば、わたわたと手元のゲームを吟味し始める。俺から視線が外れたことにほっと息を吐いて、やることもないのでとりあえず雫来を見つめる。

 こうやって見ると改めて肌すっげぇ白いな。左目の下にある泣きボクロがなんかさらに肌の白さ強調してる。髪とほぼ同じくらい真っ白。

 ここまで白いとすげぇいろんな服似合いそうだな。

 違うそうじゃない。

 それはさすがに考えてはいけない。よろしくない。あぁでも落ち着いた雰囲気だからクリスティアに着せてるような感じだとちょっと違うかな。だからそうじゃなくって。止まれ俺の思考。

 服はほら、クリスティアが着てくれるじゃん? カリナもパーティードレスとか作ったら着てくれるし。だから、ね? さすがにほとんど交流もなかった女子の脳内コーディネートはやめよう俺。ほんとに。待って。黒い服とか似合いそうだよねとか思わないで。
 タイトスカートとか。変態じゃねぇか何考えてんだ。

「き、決まりました!」

 雫来様ありがとうございますナイスタイミング。心の中で拝み、現実の手は顔を覆って一旦深呼吸。

 よしおっけ。
 いつもの人当たりのいい笑みを張り付けて、顔を覆ってた手を差し出す。

「どれ買う?」
「わ、私はこの無双系と、対戦のやつを……!」
「じゃあ俺はそのマンガのやつね。他になんか見るのある?」

 雫来から受け取りながら聞くと、首を横に振る。

「大丈夫です。な、波風君はありますか?」
「んや、俺も平気」

 正直脳内がそれどころではないので帰ってゲームして忘れたい。
 さすがにそれは言わずに。お互いもう大丈夫ということでレジに向かった。

「あ、ありがとうございました」
「いーえ」

 それから。
 雫来と順番に会計をして、まだ蒸し暑い外に出た。とくに俺は用事もないしと別れようと思って歩き出したら、雫来も同じ方向へ。

 おっとどういうことだと内心で慌てたけれど、どうやら雫来も俺と同じ北地区住まいらしく。

 日陰の中、二人で歩く。

「波風君って、あの、おっきなおうちのとこですよね。ここらへんじゃ有名な」
「有名かはちょっとわかんないけど」
「波風と言ったら大企業じゃないですか」
「最近はちょっと傘下にしてる愛原家に負けるんじゃないかって嘆いてるよ」

 主に俺の妹のせいで。
 義父さんごめんあれは止めらんない。

 そんな心の懺悔中、そうなんですねって言う雫来はまた一人しゃべり出す。

「でも波風家ってすごいですよね、ほ、ホテル経営がメインだけど、家具とかでも結構名前聞いたりして」

 他にも音楽系の電化製品、衣類……指折り数えてく雫来を視界に入れながら、相づちを打っていく。

「ゲームの方でも名前聞いたときは、び、びっくりしました」
「そっちはまだあんまり上がってないけどね」
「波風君もゲームの監修したりするんですか?」
「こういうのどうですかーっていうのに適当に答えてるだけだよ」

 何故かそこで「すごいです」と尊敬の目がこっちを向いてる気がする。いやたぶん雫来が喋ってるのってアシリアさんのとこと共同開発したやつでほとんどアシリアさんが作ったやつだし、俺まじで試作やって「いいじゃないですか」くらいしか返してないゲームだよそれ。
 調子狂うしいたたまれない。

 なんとか笑みだけは崩さずに、日陰の中でも暑い道を歩いていく。
 雫来はそのゲーム楽しかったとか、続編出たりしないかなとか話していく。それはちょっとアシリアさんに言っておこう。

「あ」

 まぁ話題は意外と尽きなくてよかったかもと、内心雫来のおしゃべり具合に感謝していると、彼女が声を上げる。
 隣を見たら、曲がり角を指さしてた。

「わ、私、こっちなんです」
「そっか」

 俺はまっすぐ、と。ここからでも見える少し豪華な屋敷の方を指さして、自然と向き合う。

「じゃ、じゃあまた学校で」
「うん。ゲーム終わったら声かけるよ」
「は、はい! 感想も、ぜひ聞かせてください」
「了解」

 お互いに微笑んで。

 雫来が手を振りながら歩き出したのを見送って、俺も自分の道を歩きだした。

 数歩歩いて。

「……はーーーー」

 深く深く、息を吐く。

 緊張したわけじゃないけれど、すごくいたたまれなかった。いろいろと。思い返すだけで顔覆いたくなるくらい情けない。
 日陰で冷えた塀に寄りかかって、体の熱を冷ます。
 目を閉じて、何回か深呼吸。

 その間に思い出されるのは、今日の雫来と。

 昔の、ヒト。

 楽しげによく喋る姿、目の中に浮かぶモチーフ。聞いてもいないことばかり言う口。

 どうしたって、似ている。

 けれどそんな偶然、こんなとこで?

「……まさかね」

 一瞬思い至った考えには、体と一緒に冷めた頭で冷静に首を横に振って。

 人間似たような奴なんていくらでもいるだろうと、一人、日陰の中を歩き出した。

『もしも”君”だったなら、今度はたくさん名前を呼べるだろうか』/レグナ