未来へ続く物語の記憶 January-IV

 大事なもの以外、なにもいらない。

「…」

 たとえば夢の中の話とか。

 大好きなヒトが出てきたら覚えていたい。でもそれが。

 興味のない人なら、わたしはいらない。

「…」

 まっしろな空間。
 なんにもなくてただただぼんやりしていたら、ふっと少し離れたとこにヒト。

 リアス様? って腰を上げかけたけど、すぐに下ろした。

 顔が見えない知らないヒト。

「…だあれ」

 まっくろな絵の具でぐちゃぐちゃに消されたような顔のそのヒト。もしかしたら声かけたら顔ができるのかなって思ったけど。

《……》

 そのヒトはぐちゃぐちゃの絵の具に塗りつぶされたまま。わたしの方を向いて突っ立ってるだけ。
 まっしろい空間にすぐ夢ってわかったから、返事がないそのヒトから視線を上に向けて、寝転んだ。

「…」

 つまんない夢。リアス様もいない。

 だったら早く目覚めないかな。今現実は何時なんだろ。

 朝でリアス様が起こしててくれればいいのに。夢って目ぎゅってしてもっかい開ければ覚めるとかなかったっけ。

「んー…」

 ぎゅってやってみるけど、目は覚めない。

 あとはなんかあったかな。

 さっきのヒトなんてもうどうでもよくなって、まっしろい天井を見つめたまま起きる方法を探してく。

 リアス様は夢の中で動けるならとにかくいろいろ動いてみるタイプで、レグナはぼんやり眺めてるだけ。カリナは——そういえば前にわたしの夢見たって言って全力で夢楽しんだって言ってたな。全力で楽しめない夢のときってどうしてるんだろう。レグナと同じかな。

 とりあえず今の段階で使えそうなのはリアス様の案だけなので、寝転んだ体をぱっと起こす。

「…」
《……》

 絵の具でぐちゃぐちゃに塗りつぶされてるようなそのヒトは、わたしに向いて突っ立ったまんま。

「なぁに」
《……》
「今夢から覚める方法、探してるの…」
《……》
「知らない?」

 そのヒトはなんにも答えない。これなんの夢なんだろ。ちょっと気味悪い。

 これは早く起きてリアス様にぎゅってしてもらおうそうしよう。そのためには早く起きなきゃ。

 とりあえず動き回ってみよっかってことで、立ち上がって目の前のヒトとは反対方向に歩いてみる。
 この空間ってなんかあるのかな。ちょっとセイレンの天界思い出すかも。あそこもまっしろでなんもなくて…あ、でも向こうは歩いてけば図書館とか街とか見えてくるのか。

 こっちは。

「んー…?」

 歩いても歩いても、なんもない。

 っていうか、

「場所、変わってない…?」

 いやまっしろだからわかんないんだけども。後ろ振り返るじゃないですか。あの絵の具のヒトいるじゃないですか。

 なんとなく距離変わってないんですよ。

 え、なにこの夢まさかのホラー系?

 これいきなり距離詰められてぶわってこう、ホラーチックなこと起きるとかないよね。飛び起きたらリアス様びっくりしちゃうからやめて欲しいんだけど。

 あのヒト起きる方法実は知ってるとかないかな。でも知らないヒトにあんまり近づいちゃダメじゃない?
 知らないヒトに着いてっちゃだめじゃん。近づくのもなんか危険がありそうだからあんまりしたくない。いや夢だから大丈夫だと思うんだけども。

「夢ってコントロールできなかったっけ…」

 前にレグナが言ってた気がする。自分で見たい夢見るようにできるとか。ちょっとリアス様出てきてくれないかな。っていうかこの夢いつ覚めるの?

 絵の具のヒトと向き合う感じで悩みつつ起きる方法も探してみるけど、時間だけが過ぎてく。
 絵の具のヒトも動かない。

 え、これほんとになんの夢。

「ずっと待ってれば起きるのかな…」

 もっかい座って、周りを見回して。

 やっぱなんもないなって、絵の具のヒトに目を戻したときだった。

「、え」

 さっきまで遠くにいたのに。

 一瞬で目の前にいらっしゃるんですけど。

 びっっっっっくりした。

 すごい夢なのに心臓バクバクしてる。この夢ほんとに大丈夫? やっぱ怖いやつ?

「な、なに、か…」
《……》

 絵の具のヒトはわたしを見下ろす。ちょっとこわいなこれ。後ろに下がって——

 あ、やば。

 腰抜けたっぽい。

 え、下がれないんですけど。ん? これ夢の作用的なもので動けない? 単に腰抜けて動けない?

 ちょっとまずいのでは。

「っ、リアスさま」
《……》

 えっこわいこわいこっち手伸ばしてこないでこわいって。

「、さわん、ないでっ!」

 伸ばしてきた手をパシッと叩く。

 あ、なんか手動かしたら体動くっぽい。

 逃げなきゃ。

「っ」

 ぱっと立ち上がって、そのヒトとは反対方向に思い切り走ってく。なんとなく体重い気がするけど構わずいっぱい走った。

 体は重くても速さはそのままみたいで、どんどんそのヒトから遠ざかってく。遠くなって、見えなくなって。

「っ、はっ…はぁ…」

 そこからもう少し走って、足をゆるめた。
 なんかホラー映画の気分。たしかホラー映画ってこうやって走ってきて、ほっとしたところで。

《……こんにちは》

 いたぁぁぁあ振り返った先の目の前にいらっしゃったぁぁぁぁああ。

 大丈夫、心臓どっきどっきしてるけど大丈夫、予測できたから大丈夫。ちょっと泣きそうだけど大丈夫リアス様早く助けて起こして。

 心臓おさえながら、声かけられたから顔を上げた。

「…?」

 そのヒトの顔に、なんかいわかん。

 あれ、さっきまで。

 この絵の具みたいなの、顔全部塗りつぶしてなかったっけ。

 なんか、目元くらいまでに、なってるような…?

 あ、だから話せるようになったのかな。とりあえずあいさつされたので。

「こ、ん、にち、は…」

 しまったこんばんはだったかもしれない。違うそうじゃない。

《今日は一人?》
「いま、は、ひとり…」
《お兄さんと遊ぼう》

 ナンパかな??

 これナンパされる夢?

 いやでも遊ぶのはリアス様とか双子だけで十分なので。

「…や、だ」

 じりじりうしろに下がりながら、首を横に振った。

《どうして?》
「…ほかのヒトと、遊ぶから」
《僕じゃダメ?》
「だめ…」

 それに、

「知らないヒトは、リアス様が、心配しちゃう、から…」

 こわくてちっちゃくなってるけど、はっきり言えば。

《知らない?》

 そのヒトの声に、圧がこもる。思わず肩がびくついた。

「し、らない…」
《どうして?》
「知らないにどうしてって、言われても…」
《どうして忘れたの?》

 忘れたの?

「な、に…」
《どうして僕のこと忘れたの?》
「わたし、なんも忘れてないっ…」

 大事なことはなんにも。

 でも目の前のヒトは納得しなくて、一歩こっちに踏み出してくる。

 こわくて一歩下がれば、また一歩。

《どうして、なんで》
「っ…?」
《なんで忘れるの、どうして思い出してくれないの》

 一歩一歩こっちに向かいながら。

「っ?」

 そのヒトの顔の絵の具が、晴れてく。

 ——やだ。

 手伸ばしてこないで。

 笑ってないで。

 その目をわたしに向けないで。

 気持ち悪い。

 下がってるのに向こうが手を伸ばしてくる方が早くて。

 こわくてこわくて、目を強く閉じた。

「っ!!」

 どうかって願いを込めて目を開けたら、さっきと違って視界がまっくらだった。

「…?」

 横を向けば壁。

「…」

 反対側を向けば、リアス様が目を閉じてる。それだけでほっとした。

 でもすぐに背中がぞわっとする。

 こわい夢だった。気持ち悪い夢。

 思い出すだけで気持ち悪くなる。思い出したくない。

 気持ち悪い。

 ぎゅって自分を抱きしめる。

「…」

 こんなのもう思い出したくない。強く強くまた目をつぶって、思ったら。

 ぱっと頭の中に黒いシルエット。

 その子はまたわたしに聞く。

 いる?
 いらない?

 くすくす笑うように羽ばたいて聞かれた質問に。

 思い出したくない記憶にまた強く体を抱きしめながら。

 小さくこぼす。

「…いらない」

 いらないの。
 大事なもの以外。わたしの中にはリアス様たちとの思い出だけでいい。

 知らない人の、気持ち悪い人の記憶なんていらない。

「…いらないよ」

 本当に? なんて言うみたいに首を傾げたその子にもう一回、言えば。

 その子は楽しそうに羽ばたいて。

 頭の中で、「わかった」って聞こえた気がした。

「…」

 そうしてそっと、目を開ければ。

「どうした」

 目の前には、大好きなヒト。

 自然と口角が上がった。

「怖い夢でも?」
「んー…?」

 あったかい体温にすりよりながら、聞かれたことに答えるために頭の中を探す。

 けれど思い当たるものは、なにもなくて。

 小さく首を横にふった。

「夢なんて覚えてなーい…」

 くすくす笑いながら、言えば。

 大好きな体温はわたしを抱きしめ返しながら。

「……そうか」

 どこか悲しそうにそうこぼして、わたしの髪をなでた。

『クリスの夢の話』/クリスティア


 恋人には、二つ。合言葉のようなものがある。

 一つは彼女自身もよく言う「遊ぼう」。

 周りの雰囲気を変えたいとき、誰かを救うとき。使う場面は様々だが、主に切り替えのときに使われる。

 そしてもう一つ。

「…いらない」

 めったに言わなくて。

 俺がとくに恐れているもの。

「……」

 小さくこぼされた言葉に、無意識に体が硬直した。

 その「いらない」は。

 彼女の記憶消去の合言葉だから。

 クリスティアは元から記憶力が良かった。誰もが覚えていないような些細な出来事すらも覚えているし、写真を撮らなくたって彼女の中にその映像や風景は鮮明に残っている。当時はその小さな体に相反するくらい膨大な量が彼女の記憶にあって、子供ながらにいつか破裂でもするんじゃないか恐々としていたほど。

 それが、いつの日からか不自然な記憶喪失のようなものを起こすようになった。

 ある日クリスティアがまたいつものように駆けていって争いを止めた。追いついたときには恋人以外誰もおらず。とりあえずケガの手当をしようと家に引っ張り、今日は何が原因だったんだと聞けば。

 不思議そうな顔をして首を傾げられた。

 俺も当然首を傾げる。そうして争いを止めに言っただろうと聞いた。いつものようにと。

 けれど恋人は首を傾げるだけ。

 あまつさえ「そうだっけ」と言う始末。よほど今回のものは興味がなかったのだろうかとも思ったが、昔からなんでもかんでも覚えていたことを知っているから違和感がありすぎた。
 だから何回か聞いた。

 彼女が起こしたことを順を追って。
 街を歩いていたら何かが聞こえて走り出したこと、名前を呼んでも振り返らなかったこと、俺が追いついたときには争いを止めていたこと。そしてその結果こうしてケガをしたこと。

 怒るのではなく、ただただ確認として。彼女の目を見て再度問えば、瞬きを何度かした後こてんと首を傾げて。

 「知らない」とただ一言、呟いた。

 あまりにも違和感があるので頭が痛いだとか何かないかを聞いても何もなし。レグナに相談してみるもそのできごと以外はきちんと答える。なんなら生まれたときからここ最近までの記憶を全部話させれば俺達が覚えていないようなことまですらすらと言った。

 その日の争いのことと、王子の件以外は。

 これはもうショックの何かだろうと断定せざるを得ず。ひとまず様子を見ようということで三人、王子の件は彼女には黙っておき、彼女の中で何か記憶改ざんがあっても一旦合わせることにと決め、その後の人生を過ごした。

 そうして何回、何十回と繰り返す中で出たのは。

 俺や双子がいない場面の記憶の一切が抜け落ちている事実。
 

 クリスティアにばれないよう後ろから着いていくという条件で一人で買い物をさせれば、夜にはその買い行く道中の記憶がなくなっている。
 地図を渡して初めて一人で歩かせた道は覚えていない。ついでに言えば何度行かせても一人の状態では絶対に覚えず必ず迷う。
 俺と双子が会話にいない・視界に入らない状態じゃヒトの顔も覚えない。「以前も来たね」と俺達がいないときに行った店の店主に「だぁれ」と返すこともしばしば。

 確かにまずい状況だが、本音を言えばこれだけだったならよかったと言ってもいい。仮に根本を治すことはできずとも、ひとまずは俺や双子がいれば記憶には刻み込まれて忘れるということはないのだから、常に誰かしらいてやれば抜け落ちることもない。自分の過保護に感謝できるくらいだ。

 問題はその記憶消去の仕方。

 多少憶測もあるが、彼女自身で「いらない」と言ったものがするりと抜け落ちること。

 いらないと言われればその記憶からは一切が消え、忘れたことも忘れているのだから恐らく思い出すこともない。

 つまり。

 仮にクリスティアから「いらない」判定を受ければ、俺達もその記憶から一切消えるということ。

 そのことがたまらなく怖い。

 恋人関係はもっと進みたいと思う。恋人の可愛らしい一面はもっと見たいし、なんなら五月のように魔が差しそうにもなるし、歯止めが利きづらくもなっている。

 けれどその反面で。

 一歩間違えてしまえば「いらない」と言われる恐怖感もないわけじゃない。

 ティノ達が言う話し合いをすることも正直難しい。覚えてないのだから聞いて首を傾げられまた聞いての堂々巡り。
 体に聞くのは確かにてっとり早いが判定を受ける可能性大。

 今の行動療法も。

 根本の治療ではなくただただそのトリガーを避けているだけ。

 簡単に進むこともできないこの状況。それは彼女の特性故なのか、それとも自分が情けないだけなのか。その答えは未だに出ない。

 ただまぁその答えだけはそれこそ話し合いをしなければ出ないだろうと溜息を吐いて。

「……」

 寝返りを打ち、目をぎゅっとつぶった愛しい恋人を見た。

 恐らく記憶消去をしているのだろう。耳を塞いで彼女は再度「いらない」とこぼす。

 今回のいらないものはなんなのか。どうか自分ではないことを祈りながら、彼女が目を開けるのを待つ。

「……」
「…」

 沈黙は短いはずなのに長く感じる。心なしか手に汗が滲んでいる気がした。その手を強く握りしめて。

 ゆっくりゆっくり、そのまぶたが開き始めたのを見つめる。

「…」

 蒼い瞳がそっと開き、俺を捉えた。声が震えそうになるのをなんとか押さえて。

「……どうした」

 聞けば。

「…」

 クリスティアの口角が上がった。それに「いらない」とされたのは自分でないとわかり、ほっと息を吐く。

「怖い夢でも?」
「んー…?」

 冷たい体温が俺の元へすり寄ってくる。うりうりと愛おしげに頬をこすりつけながら、彼女はしばし記憶の旅へ。

 けれど思い至ることはなかったのか。

「夢なんて覚えてなーい…」

 くすくす笑いながら、俺の胸元へと収まった。

 俺がいらなくなったときもそんな風に言うのだろうか。

 リアスなんて覚えてないと、笑いながら。

 どうかそれだけはないようにと祈りながらも想像して、怖くなる。

 進みたい、けれど忘れられるのも怖い。

 これ以上進むか否か、未だに心の奥底で迷いながら。

「……そうか」

 今はまだ自分を覚えていてくれている恋人を、強く抱きしめた。

『クリスの記憶消去の話』/リアス