恋人のささやかな贈り物に内心で浮かれたバレンタインが開け。
「……まじか」
その浮かれた気分を吹き飛ばすかのように、それはやってきた。
もはや恒例となってきた対戦発表のメールを開けた瞬間俺の顔はひきつり、代わる代わるのぞき込んで来た幼なじみや同級生からは哀れみの念を感じる。
その対戦相手は。
「…骨、がんばってね…」
最近骨を折るところしか見ていない気がする上級生の片割れ・陽真だった。
現実はいつだって甘くない。
そして時よ止まれと願ってもそんな願いも届くことなんてあるはずもなく。
「ヨロシク頼むぜ龍クン?」
「……あぁ」
味のしない飯をなんとか飲み込みあっという間に感じる五・六限目を終えて放課後。気づけば歓声の中、陽真と共にスタジアムに立っていた。
互いにアナウンスがかかるまでストレッチをしているが、正直俺は空笑いしか出ない。
割と恐怖心あるからな今。
もちろん、もちろん戦場では容赦なくというのも知っている。過去何度も戦場に行って戦ってきたし、その場になれば容赦なく打ちのめしてきた。勝つこと自体は好きだし、昔はそうでもなかったが今では比較的戦うのも好きではある。
たださすがに笑顔で骨を折りに来る奴には今までに見たことないな?
レグナだって骨折るときは真顔だったぞ。それはそれで怖いけれども。
当時を思い出して若干背筋がぞっとしたところで、今度は苦笑いをこぼした。
「龍クン顔ひきつってっぞ」
「この戦いに恐怖しかない」
「んな簡単に骨折れねぇって」
「あんた結構刹那と同じこと言うよな……」
「なに、刹那ちゃんも言ってんの?」
「あの馬鹿力で”人類の骨はそんなに弱くない”と」
「ハッ、わかるわー」
わかるのか。体育祭のときといいこいつら実は血の繋がった兄妹なんじゃないのか。
「ま、簡単に折れねぇのもそうだケド、折る気もねぇから安心しろって」
「それは──」
助かると言い掛けた瞬間、視線にぞっとした。
けれどそれはここ最近のものではなく、目の前の男から。
そいつを見れば、不敵に笑って。
「テンション上がんなきゃ、な?」
大変物騒なことを言ったので、今回ばかりはどうかテンションよ上がるなと願い。
《それでは第二本戦、三日目を開始します》
アナウンスの声に頭を切り替え。
魔力を練りながら下を向いて、数度深呼吸を繰り返す。
「……」
ここは戦場。
「……」
油断をすれば、死。そして、
「……」
今回は比較的早く終わらせなければクリスティアにも危険があるかもしれない。
狙うはいつも通り、首か頭。
自分もなかなか物騒だなと心の声が聞こえた気がしたが聞かなかったフリをして、目の前の敵を見据えて。
「んじゃ、楽しく行きますか」
「それなりにな」
笑ってきたそいつには微笑んで返し。
《はじめっ》
合図と同時に走ってきたそいつに向かって、俺も走り出した。
【ダガー】
【ブレード!】
互いによく使っている短刀と大剣を出現させ、まずはいつも通り刃を交える。
が、
「!」
普段だったなら押し合いになっていた攻防は、今日は力負けをして体が押された。押し切られないように後ろについた足に力を入れ、短刀には両手を添えてそれ以上進んでくるのを耐える。けれどじりじりと足は後ろに下がっていった。
「……地面をえぐる奴と毎回押し合いになるのはおかしいと思ってはいたが」
「ま、そりゃ交流ってコトで」
手加減されていたと。多少プライドに触れた発言に睨めば、そいつは意に介さず楽しそうに笑った。
「アレはしょうがねーだろーよ。普段からこんなんやってたら広人クン涙目だぜ?」
「普段からもう涙目だろう……夢ヶ崎との勝負もものすごく顔色悪かったぞ」
「今日もちょーっとそうさせちまうかもな」
「勘弁してくれいろんな意味で……」
溜息を吐きながら、体の力は抜かず短刀をぐっと押し込む。が、大剣はびくともしない。
「勘弁してくれって言うケドよー」
「あ?」
若干必死になりながら押しているところで、陽真は何食わぬ声で口を開いた。ムカつくくらいに余裕だなこいつ。おい力入れてくんな。
「なんだ」
「天使って確か構成体魔力だろ?」
「そうだがっ」
「魔力が流れてる限りオレらと違って瞬時に治るじゃんか」
「そう、だなっ」
「ってコトは別に骨折れようがすぐ治せんだろ?」
「お前そこに痛みが伴うこと入れておけよっ……!」
さも痛くないように言っているが先にぼっきり折れるんだからめちゃくちゃいてぇわ。っつーかこいつの力底なしか? 押しているのに全くびくともしないんだがっ。
「おっまえ結構馬鹿力だなっ……!」
「おいおい龍クン、ホントに押してんの?」
「押してるわこの汗見ろっ」
お前を抑えるだけで精一杯だわっ。クリスティアの瞬間的な攻撃力以上だろ。
と、そこで気づく。
クリスティアの攻撃力が瞬間的でなかったならこんな感じになると?
「お前刹那には持久力とか忍耐力とかの言葉を教えるなよ……俺の骨が死ぬ」
「なんでその発想に至ったかはわかんねーけど、オメーの後ろっ側にいる刹那ちゃんすっげぇ顔してんぞ」
視線だけでそんな感じがする。
とりあえず確認だけはしておくかと後ろを振り向けば。
「…」
氷の女王並の恋人が仁王立ちしている。これは後で仕置きか。
「生きるも地獄帰るも地獄だな」
「オメーがもう少しポロッと言葉出す癖なくせばそうなんねぇと思うんだけど?」
と声を聞きながら、押し合いをしている陽真の雰囲気が少し変わる。それに気づかないフリをして、俺の視線はクリスティア達に行ったまま。
「多少言葉はわきまえている」
「ドコがだ──」
一気に押してきた瞬間を見計らって、
「よっ!!」
「っ」
「っと!?」
ぱっとしゃがみ、足払い。予想をしていたのか否かは定かではないが、陽真はされるがまま足を払われ、横に体が倒れていく。油断はせずに一度後ろに飛び退いて、一気に魔力を練った。
「っぶね」
【アトーメントチェイン】
「ハッ、容赦ねー」
受け身を取った陽真が体制を整える前に追撃。陽真の周りにいくつもの鎖を出し、捕らえるようにと指を鳴らして合図する。その合図を聞いた鎖達は一気に陽真へと向かっていった。それを軽々とかわしていく陽真の進行方向に走っていく。
「お」
大きく踏み込んで、陽真の懐へ。こちらに向かって走ってきていたそいつは止まれない。普通の人間ならばどうするかと焦った顔をするが。
そいつは楽しそうに笑った。
その男の笑った口元の下──首を狙って。
短刀を、思い切り横に振りきる。
「っと」
けれど読まれていたそれはこの状況で少しだけ身を引いてかわす。仕留め損ねたことに思わず舌打ちが出た。
「骨折るよりたちワリーの」
「、ぐっ!」
首が飛ぶか否かのところだったのにそいつは変わらず笑い、後ろからの鎖を的確によけながら俺の腹に蹴りをかます。その蹴ってきた足を掴んで。
【グラビティ】
「は、おわっ!?」
重力操作で陽真の体を浮かせ思い切り後ろに投げた。軽々と飛んでいくそいつを追いながら魔力を練っていく。
【したたる雫に飲まれて眠れ】
着地する直前を狙って。
【水漣】
陽真の上に大きな雫を出現させ、指を鳴らして合図。洪水のようにしたたったそれは、陽真を場外に押し流し──
「……そう簡単には行かないか」
てはくれず空笑いが出てしまった。大剣を突き刺して洪水から逃れるか。
「発想としてはよくあるんだがよくまぁこの水の量で持つなお前」
「力には自身あるってな?」
「ありすぎにも程がある」
大剣一本で大津波に耐えているようなものだぞ。しかも余裕綽々と来た。
「このまま終わってくれたら嬉しかったんだが?」
「ジョーダン。これからだろ」
それこそ冗談であってほしい。練られていく魔力に溜息を吐きながら、俺も魔力を練っていく。水がなくなったスタジアムに突き刺した大剣の柄の上に立って……ってお前器用だな。
【ネブリーナ!】
思わず関心してしまった隙に、陽真の声によってあたりが霧に包まれる。次いで走る音ともう一つ魔力。
後ろに一、二……五つ。
【リオート】
こちらで練っていた魔力は後ろに展開して。
【ランス!】
【シルト、──ディストレス】
陽真の詠唱と同時に氷の盾を張り、前からやってきた気配には手に持っていた短刀に加えて愛銃を出す。後ろの弾かれる音に構わず、踏み込んだ。
「そらっ!」
「っ」
霧の中から現れた大剣は横に飛んでかわし、何発か銃弾を打ち込んでいく。霧が濃くなって前は見えないが金属音がしたから全部弾かれたんだろう。
「恐ろしい反射神経だな……」
「そりゃドーモ」
再びこちらにやってきて振り下ろされる大剣からは飛びずさり、銃弾を打ち込んで、また避けていく。
「おいおい防戦一方ってか?」
「まともに食らっても抑えられん」
もれなく短刀押し切ってまっぷたつだろうよ。さすがにそうなると回復ができなくなって困るので、大剣とは刃を交えないようにかわし時に銃を打ち込みながら魔力を練っていった。
練った魔力は足下に持って行き。
「……」
気づかれないように薄くして足を着けたところに一つずつ、置いていく。
「殴り合いとか期待したんだケド」
「あんたらと一緒にしないでくれ……」
四つ目。気づいたような気配は全くないので後ろに下がりながら方向転換をしてスタジアム内をまんべんなく回っていく。
「オマエ魔術戦の方が得意なの?」
「どちらかと言えばな」
振り下ろしてきた大剣に銃弾を当てて軌道を逸らし、逃げに入っている俺に少々つまらなさそうにしている陽真の会話にも応じる。足下の魔法陣は十個目。
「蓮クンとか刹那ちゃんのときは結構物理で行ってただろ」
「お前がそんなえげつない力の持ち主じゃなけりゃ喜んで近接に行ったわ」
まっぷたつの未来が見えるところに誰が行くか。
大剣から代わって蹴りを入れてきた陽真から遠ざかるように後ろに飛び。
着地したところに、十五個目。
主にスタジアムの縁に展開させてきたそれの位置を確認し。
「隙ありっ」
「っと」
一瞬目を動かした瞬間に振り下ろしてきた大剣を、スタジアム中央側に飛んで避けた。
そのまま繰り出される斬撃を、中央に向かってまた後ろに下がっていく。
踏み込まれては距離を取り、大剣を避け、時に軌道を逸らし。そうして避けていき、
「……」
俺はスタジアムの中央へ。下がっていく足を少し緩めれば、それを見逃さなかった陽真は大きく踏み込んできた。大剣を横から構え、俺に向かって振り切ろうとしている。
横ならちょうどいいな。
準備していた魔力とは別にもう一つ練って。
「はっ!」
陽真が大剣を振るってきたところで、
【天使の羽】
背中に翼を出し、上へ羽ばたいていく。
「うわココで天使要素かよ」
「陽真」
「あー?」
本当の戦場ならば言わないけれど、さすがにここで死亡というのは困るので、声を掛ける。陽真の頭上に舞い上がったまま。
「今回ばかりは魔力か何かで自分を保護しておけよ」
何を言っているのかわからないといったような顔の陽真に、笑って。
【アサルト】
その名を呼んで張り巡らせていた魔力を形にする。スタジアムの中央を取り囲むように展開されたアサルトライフルはすべて陽真を狙っていた。
「マジかよ」
状況を理解したときにはもう遅い。
中指に親指を添えて。
パチンと指を鳴らし、ライフルを一斉に放った。
「っと」
「これでもかわすか……」
まっすぐ標的に向かっていった弾を、陽真は恐ろしい反射神経で回避していく。
が、
「っ!!」
さすがに第二陣、三陣と続けざまに撃たれればいくつかがその体に当たり、血が舞った。
「ッテェ」
それで動きが鈍ったところに何発かまた体に入り。
「っ……!」
第五陣の射撃にして、ようやっとその膝をスタジアムに着いた。
さすがに回避できない状態で撃てば死ぬことはわかっているので指を鳴らし射撃を止め。
あとは鎖か何かで縛って場外に出すだけだと、魔力を練りながら血が流れているスタジアムに足を着ける。着地した地面から陽真を見やれば。
「……さすがに少しやりすぎたな」
膝をついたそいつの周りはすでに血の海と化していた。これはもう気絶しているか、まだ動けないだけか。さすがに死んでは──
……いないよな?
ふっとよぎった最悪の事態に一気に不安が押し寄せる。その押し寄せている間にも血は溢れていく。
少しどころではなくやりすぎたかもしれない。
「陽真」
「……」
もしかしたら外に出した時点では遅くなる可能性もある。確認して魔術で止血した方が得策か。どことなく、心配の声も上がらずスタジアム内が静かに感じるのを奇妙に思いながら、陽真に近づいていった。
「おい」
「……」
大剣をスタジアムに突き刺し膝をついている陽真はまだ答えない。溢れる血に冷や汗が出てくる。意識的に呼吸を深くしながら、陽真の前に膝をついて。
「はる──」
そいつに手を伸ばしたとき。
俺はすっかり忘れていた。
「……やっと来たな」
こいつは、
「待ってたぜ龍クン?」
死の淵が見えるくらい、全力で”遊べる”相手が好きだと。
うつむいていた顔に笑みが見えたときには、もう遅い。
「!!!」
溢れる血なんて構わずにそいつは伸ばしていた俺の手を掴んで、思いきり引っ張る。
「あーーイッテェ」
痛いといいながらまるで痛みなんて感じていないかのように、力強く。驚きを隠せずされるがまま引っ張られ、血の海へとたたきつけられた。
「っ」
「心配性に賭けてよかったわ」
「なに、っ」
五月のように俺の腹に馬乗りになって、起きあがるのを阻む。相手は傷だらけのはずなのにあがいてもびくともしない。
逃れようとしている俺に構わず、陽真はゆっくりと俺の首へ手を持ってくる。
「おかげでまだ遊べるな?」
「っ」
ぐっと力を入れてくるそいつを見上げれば、血に塗れたペンダントを揺らしながら楽しそうに笑った。らしくもなくぞっとして、顔がひきつったのがわかる。
「手当しないとあんたの方が危ないんじゃないのか」
「ヘーキヘーキ。こんくらいまだ軽い方」
となると武煉のときはもっとやばいものを見る羽目になるのか。置かれている状況とは関係のない考えとはわかっていつつも、思い描いてしまった惨状にそちらにもぞっとして。
絞まった首に顔をしかめながら、魔力を練っていく。
それを極限状態だから感じたのか、陽真の首を絞めていく力も強まった気がした。
おそらく考えは同じ。
オトせば終わり。
「っ、はっ」
呼吸が浅くなって頭がぼんやりしていくのを感じつつ、笑みが深まっている陽真の下でなんとか魔力をコントロールする。
「もうちょい楽しませてくれよ?」
「ぅぐっ」
どんどん力が強まっていく陽真の手に、視界がほんの少しずつぼやけていくのを感じた。
「はっ、っ……!」
「おもしれーからその魔力撃ってからオチようぜ」
「このマゾめっ……!」
なんとか言葉は返すも、正直自分がなんの術を練っているかもよくわからなくなってきている。これオチるんじゃなくてそもそも死ぬんじゃないのか。
「っ、かはっ」
「死ぬなよ」
「むしろお前が殺してくれるなよっ、はっ」
ぼやけていく視界、朦朧とする意識。
死を彷彿とさせる状況で脳裏に浮かぶのは、恋人のこと。
「っ」
いつだってヒーローのように助けてくれた彼女を思い出して、練っていた魔力を、形に変える。
【りおー、と】
死ぬ気はないから、小さな恋人の姿の術ではなく。
彼女が愛用しているものを出現させる。
【リェーズヴィエ】
正直目の前はもう見えないが、魔力を感じながら自分の周りに展開して。
楽しそうに笑う声を聞きながら、手を動かすけれど。
「っは……っ」
合図を送ろうとした声は出なくて。
口だけが動いた次の瞬間、カシャンとガラスが割れるような音がした。
それが何かは、わからないけれど。
緩くなっていく首の感覚に、終わりが来たことだけは、わかった。
♦
冷たい感覚で、目が覚めた。
ゆっくりとまぶたを開ければ。
「…おーはーよ」
愛しい恋人が、蒼い目で俺をのぞきこんでいる。それにふっとほころんで。
「……おはよう」
挨拶をかわせば、恋人はほっとしたように口元を緩めた。そうして俺に抱きついてきて、うりうりと頬をすりつけてくる。その頭を撫でて──待て。
ものすごくいつも通りの朝みたいにしているがちょっと待て。
朝みたいなことをしているがよくよく見れば天井が高すぎないか? うちとは比べものにならないくらい豪華な装飾じゃないか?
そんなに見たことはないが一回は絶対この場所見ているぞ。
一瞬「クリスティア」と呼びかけたのは何とか飲み込んで。
「刹那」
「なーにー」
「ここはどこだ」
「演習場…」
だよな。理解した瞬間に恋人を器用に抱き上げながら起き上がり、ばっと周りを見回す。
大丈夫かと口々に声を掛けてくる同級生には頷いて返し。
見回した最後に目に入った、本日の対戦相手へ。
「よぉ龍クン」
「……」
そいつは包帯やらガーゼを体につけながら平気そうに立って笑っていた。お前の方が重傷だろう何故そんな当たり前のように立っている。
「平気か?」
「いやあんたが平気なのか……」
「言ったろーよ、こんなん軽い方だって。なぁ?」
隣に立つ武煉に笑いかければ、さも当然というように笑う。それにひきつりつつ。
そんなことよりと思い出したことを、俺の髪の毛をいじり始めているクリスティアに目を向けて聞いた。
「勝負は」
「はるまー」
一言名前だけで済ませて恋人は髪いじりを継続。あまりのあっさりさに悔しさもわいてこねぇわ。
けれど、まぁ。
ひょこひょこと歩いてきて隣に座った陽真に目を向けて。
「リベンジならいつでも受けるぜ?」
その笑みに、先ほどの一連のことを思い出し。
「……遠慮しておく」
こいつとの本気バトルはできれば遠慮願いたいと、首を横に振っておいた。
『骨は無事だが心は折れた気がする』/リアス
金曜日と月曜日は、女子がいない時間が取れる唯一の曜日である。どうしてもクリスティアには聞かせたくない話というのはよくここでするので。
「……なんか悩んでんの?」
体育に向けた着替えの時間。今週バレンタインやら陽真先輩とのバトルやらで忙しかった親友が少々思い詰めたというか、妙に考えてる風な雰囲気が出たので着替えながら聞いてみた。
「……悩みというわけではないが」
「聞くけど。珍しく二人だし」
最近は先輩たちが来たり時間の空いた同級生が来たりとせわしなかったけれど、今日は珍しく俺たちだけ。
前の授業が体育のリアスはすでに着替え終わってるので。
「着替え待ってもらってるお礼にどうぞ」
「……」
ワイシャツのボタンを外しながら言えば、ロッカーに寄りかかってる親友は少し黙る。よくあることなので特に気にもとめずワイシャツを脱いで、ロッカーに入れてある半袖の体育着を手に取った。
「刹那のことなんだが」
「うん。あ、惚気?」
「違う」
「なんだ、大歓迎なのに」
ちゃかすように笑ってから体操着の首に頭を通す。袖にも腕を入れていく中でちらりと見た親友の顔はどうしても気まずそう。
「何」
「……」
「お前から言おうとしてるってことは俺に関係はなくとも俺が一番良い意見出しそうってとこでしょ」
四月。機嫌悪そうに「関係ない」と言い切ったのをちょっと掘り返して言ってやれば親友は居心地悪そうに目をそらした。それにしてやったりと心の中で笑って、下を履き替えてジャージを手に取り、親友が答えやすいように言葉を掛けていく。
「刹那の療法? 記憶?」
「……療法」
「順調なんじゃないの」
「……そうだが」
そこからはもう親友の中にしか答えはないので、ジャージを着終わえてから俺もロッカーにもたれた。ちらりと時計を見れば、休み兼移動時間は残り十分。
「刹那に聞かれたくないならお早めに?」
「……」
着替え終わった他の人が出て行く足音を聞きながら、促せば。
「……このまま、進むか正直悩んでいる」
小さな声で、こぼした。
「……口にまで行くかとか?」
「それも。あとはあいつの本当の根本に触れていくかも」
根本。
クリスティアが忘れている記憶について。
俺たちはなんとなく「これが苦手じゃないか」とあたりをつけてそれを避けてきたわけだけど、その答えはクリスの中にしかない。
それに、触れていくか、否か。
「……夏も言ったけど、やり方を間違えなきゃいいんじゃない」
「……」
わかってはいつつも、どうしても悩んでいる様子。
それも当然。
やり方を間違えなきゃいい。
言うのは簡単。
けれどその彼女に合うやり方はいくつあるかもわからない。そもそも存在するかもわからない。
間違えたなら何度だってやり直せばいいと、話の中ではよくあるんだろう。ちょっとの間違いなら修正できる。
けれどクリスの場合。
完全に間違えた場合は「もう一度」すら存在しないかもしれない。
その恐怖は、第三者としてしか見ることのできない俺には到底わかることのできないものだけど。
「あいつが何がだめで、何が怖くて、どこがトリガーになるのかは、いずれ知らなければいけないとも思っている」
「うん」
「それが、今でいいのかが……一番悩みどころだ」
「あーーーー……」
”今”と言われるとそこに納得してしまう。
最近出てる視線。こっちも正確なことはわからないけれど、一応カリナかクリスティアが狙われてるねという話。
「緊急事態って今だけは忘れないようにしたもんね」
「あいつがこのまま何も感知しなければそれはそれでいいんだが」
もしも感知して、解決するまで覚えている場合。
トラウマのスイッチが入る可能性だって高くなる。
「お前なんでそんな超高難易度クエスト受けてんの……」
「好きで受けたわけじゃねぇわ……」
確証もない、道は何個もある、そしてその道の先はすべて真っ暗。入ってみなければわからない。現状の推測じゃあトラップばっかり。
「それは確かに悩むわ……そんで龍の抑えも厳しいと来た」
「あまり言いたくはないがそうだな。ティノが言っていた話し合いも考えてはいるんだが」
「話し合いになるか謎だよね」
「本当にな」
今までのクリスティアを見てきて二人で空笑いしたところで。
「!」
予鈴の方が鳴って、リアスと目を合わせた。
「体動かしながらでも考えてみるよ」
「悪い……」
「突っぱねられて一人で思い詰められるよりマシ」
笑って親友の肩を叩いて。
ひとまず授業に向かいますかと、更衣室を後にした。
そんな今日の体育球技はドッジボールバトル。くじを引いてチーム分けをしまして。
「んじゃ頑張りますか」
「はぁい…」
俺はクリスと一緒のチーム。対戦相手の向こうはリアスとカリナ。すでにチーム内でいがみあってるけどそこはいつも通りということで。
万が一顔面に当たったとかとなるとリアスがいろんない意味で死んでしまうのでクリスティアと一緒に外野に立候補し、コートの外側でなるべく彼女の近くに立つ。
まぁ、
「はじめっ!」
『えいっ!』
「そりゃ!」
エシュト学園っていろんな種族がいてみんなだいたい身体能力高いんで外野ってあんまり必要ないんだけども。始まった瞬間内野同士のボールの投げ合いすげぇ。
「外野だと龍のかっこいいとこ見れんね」
「そー…わたしは延々と外野を立候補したい…」
お、そんなこと言ってたらリアスにボール渡った。親友はきれいなフォームでボールを投げて。
近くにいたヒト型ヒューマンを撃破。
「かっこいー…」
「刹那さんや、見れるねって言ったのは俺だけど一応龍敵だから」
「敵の方がかっこいいとかない…?」
「あぁそれはわかるわー」
なんて笑いながら試合を見ている最中に。
考えるのは、さっきのこと。
視線のこともそろそろどうにかしたいし、カップルたちも進んで欲しい。
けれどすべてにおいて情報という名のカードが足りない。
そしてそのカードを探そうにも探すあてはまったくない。
「まさに八方塞がり……」
「はっぽー?」
「んー?」
ほとんどボールが飛んでこない中で俺の体操着をいじり始めてるクリスティアの頭を撫でておいて。
「とりあえず俺の服ほつれさせないでね」
「へーき…。蓮のは糸が出てないから…」
そろそろ糸が出てるときに引っ張る癖をやめていただきたい。
って、
「おっと」
そういうことじゃないだろと言われるかのように飛んできたボールは俺がキャッチ。クリスティアの頭をトントンと叩いて離れてもらって、一応敵側の内野も狙いつつ取られないように味方へ投げた。
また内野同士での戦いが始まったので、思考を戻す。
いや戻すっていってもどうしようもできない状態ではどうしろってのも難しいんだけれども。
とりあえず親友の悩みを中心に。
今この状況で進むか否か。
時間を置いて、その視線の件が解決してからしっかりとっていうのはもちろんあり。むしろそれを推してもいい。
ただリアスの限界を考えるとその案で頑張れとも言いづらい。たとえば交際自体が始まって一ヶ月二ヶ月ならあともうちょい頑張ろうぜって言える。
しかし親友とこの小さな親友のつきあいは約一万年である。そしてイコール、リアスが我慢してきた年数でもある。あいつそろそろ聖人君子にもなれるんじゃない? よくまぁここまで我慢してるよほんと。
ということを知っているので同じ男としても進むことを押したい。
進むって方向で考えるとクリスをどうにかするんだよね。うまーくこう、怖くないよーみたいに少しずつ少しずつ警戒心なくしてくのがベストじゃん。それを今行動療法でやってて?
あぁでもクリスが怖いって思ってる部分がわかんないのでそこを探らなきゃいけないのか。で、その探り方がなくて。
だめだ何考えても振り出しに戻るな。
「わかんねー……」
「なにがー」
君かなーと言いたくなるのはぐっと抑えまして。
ボールがほとんど飛んでこないことをいいことにクリスの視線に合わせるようにしゃがんだ。
「悩みごと…?」
「んー……ゲームの攻略がねー、ちょい詰まってて」
「めずらしー…なにやってるの?」
「恋愛もの」
「蓮、毎回バッドエンドにしかならない…」
「俺はあれにハッピーエンドなんて存在しないと思ってるから」
ただ、
「どうしてもそのルートだけはハッピーエンドにしたいんだよね」
互いに悲しいエンドじゃなくて、もし何かあったとしても、最後はちゃんと笑えるような。
クリスティアの頭を撫でながら言えば、その子はぱちぱちと目を瞬かせた。それに笑ったとき、内野から名前が呼ばれたのでぱっと視線を向ければボールが飛んできたのが目に入り、立ち上がって手に取る。
ボールを投げ返してからクリスティアを見れば、変わらず俺を見てた。
そうして、こてんと首を傾げて。
「その子は、どうやったらハッピーエンドになれるの…?」
聞いてきた言葉に。
これは、核心に触れないなら多少踏み込んでもいいんじゃないかと思って。
「わかんないんだよね」
首を横に振った。
「わかんない…」
「結構難しいゲームでさー、正解ルートがあるかもわかんないの」
「間違っちゃったら…?」
間違ったら。
「やったことないからそこもわかんないけど」
たぶん。
「全部忘れちゃうんじゃないかな」
今までのことも、何もかも。
悲しいことも、楽しかったことも、幸せだったことも。
なかったことのように。
「それがさ、どうしても嫌なんだよね」
「…」
「だからなんか、うまく進めなくて。でも進みたい気持ちもあって」
困ってるんだよねと、その本人で、いつだって助けてくれたヒーローに言ってみた。彼女は相変わらず俺を見上げたまま。
ボールや声が飛び交う中で、俺たちの間は静か。
何かを考えているのかはわからない。ただずっと、クリスティアは俺を見上げてくる。ボールのことを少し気にはしながら、その瞳を見つめ返していた。
どのくらい経ったんだろうか。きっと数十秒くらいなんだろうけれど、長く感じたその時間のあと。
小さな口が、そっと開いて。
「…その子は、ほんとに忘れちゃうのかな」
こぼれた言葉に、目を見開いた。
「……え」
「間違ったからって、ぜんぶ、忘れちゃう?」
「……刹那は、そうは思わないって?」
こくりと、頷いた。
「わたしは、大事じゃないならいらない。どんなに楽しかった記憶でも、大事じゃないなら別に、覚えてなくていい」
でも。
「どんなに怖くても、悲しくても。それが大事な人のことなら、絶対忘れない」
それもその人との大切な思い出だから。
「なかったことになんて、絶対しない」
みんなで忘れられることが怖くて、ずっと聞かなかった彼女の本心。それを聞かなかったからこそ、すべてを「かもしれない」と推測してきていた。
俺が言ったことは、クリスティアは自分のことだなんて思っていないだろうけれど。
それを聞いて、一つだけ枷みたいなのは取れた気がした。
「……そっか」
「うん」
きっと聞いていたであろう親友には、後で背中を押すとして。
「じゃあ頑張ろっか」
「? うん…」
ひとまずその背を押すためにこの勝負を終わらせようと、クリスティアの小さな頭を撫でて、コートへと目を戻した。
『クリスティアは忘れない』/レグナ
大事なことは、全部覚えてる。
みんなと出逢った日のことも、出逢うまでたくさん心が痛かったことも、幸せな日々も、お別れのときの悲しさも。
なにひとつ、忘れたことなんてない。
声も、顔も、なにもかも。
だから、
「…」
《……》
目の前にいるヒトに、首を傾げてしまう。
まっしろな空間の中にぽつんと立ってるそのヒト。ちょっと細身だけど、体の感じがきっと男のヒト。
そのヒトの顔は、まっくろな絵の具でぐちゃぐちゃに塗りつぶされてるように、見えない。
「だぁれ」
《……》
声を掛けても、ほんの少し離れたところにいるヒトはなにも答えなかった。とりあえず座って、周りを見てみる。
リアス様もいないし、そもそもまっしろで変なところだし。さっきリアス様と一緒にベッドの中に入ったからきっとこれは夢。
不思議な、夢。
いつも夢の中で見るのは、今まで見てきたいろんな風景や大好きなヒトたちの夢だった。みんなで笑って、あそんで、たくさんの場所に行く夢。
そのどれも、わたしは全部覚えてる。たしかに夢だから、遊園地の先がいきなりプールだったり変につながってることもあるけれど、これはこのとき行った場所、あそこはこの時代にってひとつひとつ、全部言えた。このまっしろな空間も、天界のセイレンのとこに似てる。
でも。
「…」
少し先に立ってる絵の具のヒトは、今まで見たことなかった。
そもそもこんな顔まっくろで見えないヒトっていなくない? もしかして逢ったけどフードで顔隠れててわかんなかったとかそんな感じなのかな。
「あなたはわたしと逢ったこと、あるの?」
《……》
なにも答えてくれない。
動くこともしない、口──はちょっと隠れてるから動いてるかわかんないけど、声も出ないそのヒトに、ちょっとため息。
「…」
《……》
「…」
《……》
気まずいんですけれども。
え、どうしよう。起きるまでこのまま? せめてなにかしら変わって欲しい。なんかこういきなり「はぁい夢の世界ですよ!」みたいなファンシーな場所に出るとかさ。
「っ」
いきなり目の前のヒトがこんな風に近くに来るとかじゃなくてね?? びっくりした一瞬目離した瞬間にすごい距離詰めてきた。
「…ぁ、の」
《……》
見上げたそのヒトは結構身長あって、わたしを見下ろす。え、こわいんですけど。すごいなんか威圧感。ちょっと距離取りたい。
あ、でも待って。
「、…」
やばいこれ腰抜けたかもしれない。夢でそんな腰抜けるとかある?? いや夢だと結構動かしづらいとかもあるからなくもないのか。
じゃなくって。
動けわたしっ。
「っ」
心で強く願えば、体が動いた。そのままそのヒトに背中を向けて走り出す。やっぱり夢だからか体は重く感じる。速さはいつも通りなんだけども。
「、はぁっ、はっ」
なにも変わらない景色の中、たくさんたくさん走った。
「っ、も、むりっ…」
夢の中のはずなのに苦しくて、足も疲れてきて。止まりたくて、そのヒトとどこまで距離が離れたんだろうって後ろを向いた。
「…いな、い…?」
たくさん走ったからなのかまっしろな空間にはそのヒトはいなくて、少し足を緩めてった。
これ止まっていいよね? なんかホラー映画の気分なんだけどいきなり目の前に来るとかないよね??
よくあるじゃんこの前見たよリアス様とホラー映画。主人公が一生懸命走って逃げ切ったと思ったら、
《こんにちは》
こんな風に──
こんな風に?
声が聞こえて上を見上げたら。
「ひっ」
いらっしゃるじゃないですかさっきのヒトっ。思わずひきつった声出ちゃった待ってびっくりしたどころじゃない助けてリアスさまほんとに。
「ぁ、の」
やばい待ってまた腰抜けたかもしれない。あれでも立ってる状態で腰って抜けるもの? ちがうこれはたぶん足がすくんだとかそういうのでは。
なんて冷静なのかそうじゃないのかわかんない頭で、そのヒトを見上げる。
「なに、か…」
《一緒に遊ぼう》
「…」
なんとなく、さっきと違って黒く塗りつぶされてるところが減ってる気がする。口が見えてる。やっぱり口隠れてたからしゃべれなかった?
だから今そういうことじゃなくて。
「…」
《お兄さんと遊ぼう?》
伸ばされた手に、首を横に振る。
「ぁ、そば、ない…」
すくんでる足をなんとか動かして、一歩後ろに下がりながら言えば。
《どうして》
そのヒトの声が、一段低くなった。思わず肩が跳ねる。
「し、知らないヒト、は、リアスが、心配、して…」
《知らない?》
一歩、そのヒトがこっちに来た。
「し、しらない…」
《そんなはずない》
「っ」
黒く塗りつぶされたその顔は、覚えてないはずなのに。
そのヒトは怒ったようにまた一歩近づいてきた。
《どうして忘れるの》
「わす、れ…」
《何度も何度も何度もっ!!》
「っ?」
忘れた?
わたしが?
「わ、たし、なにも忘れてないっ」
《ずっと忘れている!!》
「なんも忘れてないっ…!」
ぜんぶ覚えてる。
ちゃんと、全部。
みんなのことも、ぜんぶ、ぜんぶ。
なのに目の前のヒトは首を横に振って、また一歩。
《思い出せ》
「っ」
《思い出せ》
早く、早く。
せかすようにどんどん近づいてくる。
後ろに下がってるのにそのヒトとの距離が近くなってくる。
こわい。
「りあすさま」
手を伸ばしてこないで。
「たすけてっ」
こんなの大事じゃない。
《さぁ》
こんなヒト、わたしの大事なものじゃない。
思えば思うほど、そのヒトの顔を塗りつぶしてる絵の具が落ちていった。
短い髪、そこに乗るのは、
──王冠。
ゆっくり見えてくる、目。
「やだ」
やめて。
その目をわたしに向けないで。
《──》
わたしに、
「さわらないでっ!!」
気持ち悪い手を弾いた瞬間に、目の前がまっくらに変わった。
「っ、は、はっ…、…?」
見覚えのあるドア、布団。
さっきと違う場所。
「クリス」
「!!」
さっきと違う、大好きな、声。
そっと声の方を見たら、まっくらな中で紅い目がきらきら光ってた。
「り、ぁす、さま」
それを見た瞬間に、のどがすごく熱くなってきて、目からなにかこみあげてくる。
「……触れても?」
「っ、っ」
リアス様の声に必死にうなずけば、手が伸びてきた。ちょっとだけこわかったけど、目元に触れたあったかい手がやさしくて、すぐほっと力が抜ける。
「こわいの見た」
「……あぁ」
「きもちわるい、目」
「……」
思い出すだけでもこわい。こんな夢忘れちゃいたい。
あんなの大事じゃないもの。
でも、
「…りあすさま」
「……ん?」
どうしてもひとつだけ聞きたくて、リアス様の目を見た。
みんなが追ってるのはああいう気持ち悪いのなのかなとか、気になることもあったけれど。
聞かなきゃいけない気がして、口を開く。
「わたし、リアス様のことで、忘れてることって、ある?」
聞いた瞬間に、紅い目がおっきく開いた。でもそれは一瞬で、真剣な色に変わる。
「……何故」
「…知らないヒト、出てきた」
「あぁ」
「絵の具でぐちゃぐちゃのヒト」
「……」
「でも、」
たった一つだけ、知ってる。
「リアス様と一緒にいた王宮の冠、かぶってた」
ぴくり、ほっぺに触れてる指が動いた気がした。
リアス様のことも、カリナやレグナたちとのことも、全部覚えてる。
いろんなところに行った。いろんな話をした。
そのときの服だって、どんなことでも覚えてる。
あの王冠は、リアス様もつけてたもの。そのときの王子だったから。
だから忘れてるはずなんて、ない。
けれど夢の中のヒトは知らなかった。
まっすぐ目を見て。
「リアスさま」
「……」
わたし、
「なにか大事なこと、忘れてる…?」
あなたとの大事ななにか。
ほっぺにある手に自分の手をそえながら聞けば、目の前のヒトはしばらく黙ったまま。
じっと、なにかを言おうか考えてるようなそぶりをしてから、口を開く。
「……何も」
そう言って、体を引き寄せられた。
「お前の記憶力は相当だろう。むしろたまには忘れていてもいいことがあってもいいくらいだ」
やさしく頭をなでながら、小さく笑った。それにわたしも、笑い返す。
「…そう」
「あぁ。俺とのことは何一つ忘れていない」
「…」
「見覚えがあったなら、よほどお前にとってどうでもよかったことだったんじゃないか」
背中をいつもみたいにゆるく叩いて、また笑う。
まっくらな視界の中、あったかい体温に安心して。
「…そうだね」
わたしは大好きなヒトの小さなうそを聞きながら、また目を閉じた。
『クリスティアの夢パート2』/クリスティア