未来へ続く物語の記憶 February-VI

 武闘会本戦も、決勝戦を含め残すところあと三回となりました。
 今日の対戦は陽真先輩と虎のビースト。陽真先輩はまだ傷が完全に治りきっていないのか少々体を引きずりながらスタジアムへ降りていきます。包帯やら傷バンやらが残っていますし結構心配なんですけど。

 心配したいんですけれども。

「……これはどういう状況なんでしょうね」
「…」

 今では定位置となりつつある観覧席の一画。いつものように柵によりかかっているんですが親友が何故か私に抱きついていらっしゃる。

「なんなんですかご褒美です??」
「お前そんな称えられるようなことしていないだろう」
「常にあなた方カップルを楽しませようとしている私は存分に称えられるべき存在なんですけれども」

 そうでなくてですね。

 体を引きずっている陽真先輩に向けたい視線はどうしても小さな親友へと落ちた。陽真先輩の出番となればリアスそっちのけで柵に張り付いているのに、今日は背中を向けていらっしゃる。

 いや嬉しいんですけれどもね?

「華凜ちゃんうらやましいわ」
「そうでしょう。いえそうでなく」

 うらやましいとかそんなお話ではなく。

「刹那ー?」
「…」

 名前を呼べばいつもどおりの表情で彼女は私の方を向きました。

「どうしましたー」
「…」

 けれど肝心なことはちょっと微笑んでから私の胸に埋もれて教えてくれない。

「この子天使です??」
「氷河は元々天使の種族のはずだが」
「存在が天使だと思うんです」
「愛原さん今日も絶好調だね」

 最近同級生による私の扱いが雑になってきている気がしますわ。

 だからそうでなくてですね。

「刹那、陽真先輩の始まりますわ」
「んー…」
「今日は甘えんぼさんなんです?」
「…」

 頭を撫でながら聞いても彼女はうりうりと私に頭をすりつけるだけ。困りましたね。ひとまず彼女から答えがいただけないのでいったん推測してみましょうか。

 彼女自身が気に入っている陽真先輩に背を向けてヒトに抱きついている。その対象がリアスでないというのがまず不思議な点。この視線を気をつけましょうねとなっていてなるべく男性陣から離れないようにと言われているにも関わらず。

 ということは彼女は私に対してなにかある。

 まぁこの流れで言うのであれば。

「何かしらであの視線に近いもの感じてこれは気持ち悪くていけないと一応標的に入っているかもしれない私を守ってくれるという感じかしら」
「華凜そろそろ観察とかそういうレベルじゃなくなってるよ」
『これで”何かしら”がわかっていたら通報ものですわね』
「あらあらエルアノさん、親友ならこのくらい当然ですわ」

 おっと周りから「そんなことはない」という雰囲気が一気に出ましたね。普通じゃないですかこんなの。

「私としては四六時中何が何でも一緒にいようとする過保護の方が危なくなっている気がしますわ」
「四六時中一緒にいないくせに起きたことを当てる方が危ない気がするが?」
『お互い様ですっ』

 何故でしょう、ユーアくんの何気ない言葉が心に刺さる。

《これより第三本戦初日のバトルを開始します》

 クリスティアがいることで抑えられない心は彼女を抱きしめるということで慰めさせてもらって。

 アナウンスに、抱きしめたクリスティアの背を叩きました。

「刹那、始まりますわ」
「んぅ…」
「大丈夫ですよ、みなさんいますから」
『そうだぜ嬢ちゃん。なんかある前にオイラが守ってやらぁ』
「…」
「炎上のところの戻ってこい氷河。そろそろ顔色が悪くなってきたぞ」
「…」

 左右にいらっしゃるウリオスくんと祈童くんに言われ、クリスティアはリアスを見ました。祈童くんの言うとおり顔色はあまりよろしくはない。再度彼女の背を叩いて。

「ほら、ね?」
「…」
「陽真先輩がこれで最後の出場になったら寂しいでしょう」
「あはは、聞き捨てならないな華凜」
「仮の話ですわ」

 武煉先輩は置いておきまして、クリスティアに「ね?」と聞く。

「…」

 胸に埋まるクリスティアは少々心配そうですが。

「わかったー…」

 こくりとかわいく頷いて、大好きな恋人の元へと戻っていきました。祈童くんの一つ先にいる幼なじみたちを確認して。

《はじめっ》

 アナウンスの声に、スタジアムへと目を戻しました。

 いつものように大剣を出して、多少ぎこちなさはありつつも構える陽真先輩。

 そして相手は──。

「……向かっていかないんですのね」
『チャンスなのにねー』
「えぇと、っていうかさ……」

 閃吏くんの苦笑いの声に、全員思ったことはきっと同じ。

 対戦相手さん、じりじり後ろに下がっていってません??

「な、なんかこう、に、逃げてるというか……」
『逃げたいって感じですっ』
『言っちゃあれだが今日のアニキは負傷してんだからどっちかってーと狙いめだろ?』
「チャンスじゃない!」
「チャンスなんだけどねぇ」

 美織さんの声に返したのはフィノア先輩。全員でそちらを向けば、武煉先輩と二人してスタジアムを見つめています。

「そこには”普通なら”というのがつくけれどね」
「はるまは…チャンスじゃない…?」

 クリスティアが聞けば、武煉先輩が笑う。

「陽真の”アレ”を見たなら、たいていの人は怖じ気付くんじゃないかな」

 ──アレ。

 一瞬わからずに、全員で首を傾げてしまう。それを横目で見たのか、今度はフィノア先輩が笑いました。

「龍は身を持って体感したでしょぉ?」
「体感……」

 全員で思い出し。

 あぁ、と顔がひきつってしまった。

 陽真先輩の”アレ”。
 戦えば戦うほどテンションがあがっていき、血塗れになろうがなんだろうが笑って相手を戦闘不能まで追い込んでいく”アレ”。

「相手が強ければ強いほど陽真は這い蹲らせたくて立ち上がっていくからね」
「下手に強い奴って思われたらスイッチ入るの確定ってワケェ」
「炎上君もだけど、雫来さんも氷河さんも生きててよかったね……」
「ぃ、今思うと恐ろしいです……」

 よかったクリスティアが第一次予選で落ちてくれて。

 幼なじみ全員がもれなく死にますわ。

 思い描きたくないけれど浮かんでしまったイメージに空笑いをして。

「ま、ある意味良い訓練っちゃあ良い訓練よねぇ」
『良い訓練……ですか?』

 再びフィノア先輩たちの方へ向けば、彼女はエルアノさんの声に頷く。

「武闘会はほんとの実戦も兼ねた模擬戦。もちろん大事な者のために勝つっていうのが基本だけどぉ」
「ときには勝利だけが守ることではありませんから」

 武煉先輩が指を指したので、スタジアムへと目を向ける。
 お相手の虎のビーストはじりじりと機会を伺うように下がっています。

 陽真先輩が一歩進めばまた一歩下がる。決して背中は見せぬように。

《ランス》

 自分の真上に五本の槍を出されても、下がる体制を変えることはない。

 そのビーストの前にはうっすらと何かが渦巻いている。

「ちょっ、逃げないと危ないんじゃないかしら!?」

 小さな風の渦が見えてきて、美織さんの声には心の中で首を横に振った。

《……》
《……》

 静かな見つめ合いの中。

 動いたのは、陽真先輩。

 パチンと演習場に指を鳴らす音を響かせて、ビーストの上に出していた槍たちへ合図。

 その合図で、槍はビーストにまっすぐ落ちていきました。

『わ、わ、あぶない!』

 ティノくんの声が響いた瞬間。

《ストーム》

 虎のビーストは準備していた風の渦を大きくして竜巻へ。自身の周りに展開したそれは槍を巻き込んでいき。

《お》

 そのまま竜巻が陽真先輩の元へと向かっていく。
 それを笑いながら待ちかまえて。

 陽真先輩は、竜巻に飲まれていきました。

 その間に虎のビーストは場外へと飛び退いていき、すぐに陽真先輩を飲んだ竜巻が晴れていく。

 見えた陽真先輩はほんの少し傷を増やしながらもまっすぐ立ったまま。

《なんだ終わりかよ》

 むしろ少しつまらなさそうに呟いて。

《本日の勝者・紫電陽真》

 アナウンスが、彼の勝利を告げました。
 それに納得行かないと言ったようなのは何故か本人ではなく美織さんやティノくん。

「どうしてあそこで虎先輩は追撃しなかったの!?」
『あのまま行けばセンパイのこわいのもなく行けそうだったじゃんー!』
「あはは、そんなことありませんよ。今回はあれが一番良い判断だったんじゃないかな」

 武煉先輩がそう言うも、少々納得いかなさそうな同級生たち。

 たしかに行こうと思えば行ってもよかったかもしれない。相手は多少変なギミックはありつつも負傷中。あの風の強さならそのまま吹き飛ばすこともできなくはない。

 ただ今回は、

「戦略的撤退、ってねぇ」

 戦場と考えたとき。

 彼は”生きのびて守る”という判断をしただけ。

「戦略的、撤退……」

 閃吏くんがこぼした声に答えたのは兄から。

「あの攻撃で陽真先輩が落ちたならラッキー。自分が死んでも倒しに行くっていう選択肢もあり。けど、明らかに勝てないとき、仮に後ろにいる守ってるヒトたちがいたらあのヒトが落ちた時点で全滅確定」
「虎の脚力なら基本的にヒト型は追いつけない。ヒトを逃がすならあのまま逃げられるし、もう一度というなら一旦逃げて体制を立て直して行くこともできる」
「要はどう勝つか、ですわ。目の前の敵を倒すことで戦いに勝利したいのか、目的を達するという勝利を得たいのか」
「武闘会という名前の関係上、なかなかそこには気付きづらいけれどね」
「上に行けば行くほど単なる戦闘好きが多くなってくるしねぇ」

 あぁ確かにと思うのはお世話になっている方々がそうだからですよね。

 と。

 正直気持ちはわかりながら、ずるずると引きずるような足音が聞こえそちらを向けば。

「戦闘好きにはモノ足んねぇケドなぁ」

 腕やら足やらにカウンターの傷を受け、血を滴らせながらやってきた陽真先輩。遠目で見ていた以上にしっかりダメージ受けていらっしゃいますね。うわぁと引いた顔をする私たちの中で、彼に一目散に駆けていくのはクリスティア。

「はるまおかえりー」
「おーただいま。変なヤツ来なかったか」
「へーきー」
「そらよかった。オレら保健室だけ行くから帰りちょい待っててな」
「はぁい」

 まるで兄妹のようなやりとりに微笑みながら、顔は残っている幼なじみの方へ。

「では我々は待っている間花壇の様子を見に行きましょうか」
「そろそろ咲いてる?」
「かもいれませんわ」
『今回姐さんたちは何を育ててるんですかい?』
「アネモネですわ。三月中でしたらきっと確実でしょうから是非見に来てくださいな」
「楽しみだわ!」

 来月ともなればちょうどお花見ですし、あそこらへんで咲く桜も一緒に見れたらいいかもしれませんね。春休みにでもやったら楽しいかしら。

 考えながら、武煉先輩たちに一旦お別れをと振り向いたとき。

「!」

 ぱっと、黒いヒトが目に入った。

 黒いパーカーでフードを深く被っているからはっきりとはしないけれど。

 こちらを見ている。

 突然のことに驚きはしつつもそれは見せず顔は笑みのまま、気づかなかったフリをして。

「……蓮」

 そっと兄に近づいて、手を引くそぶりをしながらレグナにアイコンタクト。横目でそのヒトを捉えた兄の目は一気に冷たいものに変わった。

「刹那、おいで」
「…!」

 私たちの雰囲気を察してリアスもすぐにクリスティアを呼び、駆けてきたクリスティアを受け止めて抱きしめる。ひとまずクリスの安全は保障。

 あとは相手に気づかれないようにあのお方を確保。

 と行きたくて思考を巡らせようとした瞬間。

「!」

 ぞっとした感覚に襲われる。

 気持ち悪いような、ただただ「ぞわっとする」というのが当てはまるような。

 方向は。

 黒いパーカーの方から。

 思わずぱっと振り返ってしまったのがいけなかった。

 視界の横に入れている黒いパーカーの方が動いて、人混みに紛れるように走り出してしまう。

 ここで逃すのはまずい。

 レグナと共に走り出す。

「行きましょうっ」
「えっ、どうしたの華凜ちゃん! 波風くんも!」
「それっぽいのいた」
「武煉」
「あぁ」
「祈童は念のためこっちいて。龍と刹那、戦力踏まえて置いてくから」
「任せろ。何かあったら知らせよう」
「一応どなたかご連絡を」
「はいはぁい、任せなさぁい」

 それぞれに指示を出し、武煉先輩も含めた三人で黒いパーカーが向かった出口へと走る。

 けれどその出口の通路まで出れば。

「とんだ人混みですわね」
「帰りですからね。集中するんだ」
「足音も追えないわこれじゃ」

 ヒトやビーストが壁になってしまって突き進めない。舌打ちをしたとき、武煉先輩が背を押してきました。

「幸いここに入ってしまったらこちらに出るか出口に行くかの一本道だ。君たちはテレポートで向こうへ出てください。俺は探しながら出ます」
「この人混みの中行けます?」
「もちろん」

 心配はよぎるものの、こちら側は何かあれば陽真先輩たちもいる。まずは逃がさないことが先決。

 頷いて。

「行こう」
「はいな」

 魔力を練った瞬間、息を吸ったようなモーションをした武煉先輩が気になりつつも。

 背を押されるまま、出口に向かってテレポートしました。

「いましたっ!」

 ヒトにぶつからない場所にと、出口からほんの少し離れた場所に出ればそのヒトはいた。

 黒いパーカーで急ぎ気味に出口から出ようとしている。

 レグナと目を見合わせ──る間もなくレグナが行ってしまった。

「ちょっと蓮!」
「逃がさないのが先決」

 そうですけれども。

 あぁスイッチの入ってしまったレグナが華麗に跳び蹴りをかましてしまった。

「ぅ、ぐっ!!」

 そのままクリスティアよろしく相手を倒して馬乗りになり。

 問答無用で千本をのどに突きつける。

「俺らのこと見てたのはあなた?」
「っ」
「逃げるような感じがして追って来ちゃったんだけど」

 追って来ちゃったどころかはっ倒して千本突きつけてるんですけれど。どうしよう犯人かもしれないながら若干申し訳なさがこみ上げてきましたわ。

 とりあえず兄の尋問スイッチの方が入らないように近づいていく中で、思ったより早く武煉先輩も私たちの元へ到着。

「すでに確保済みだったかな?」
「まだ犯人かどうかもわかっていないんですけれどもね」

 早足で近づいて、そのフードの方を兄の後ろからのぞく。首に千本を突きつけられながらも抵抗し、未だそのお顔はわからない。

「とりあえずこっちで確保したよ。──うん、あぁ、広人先生来てくれるの? わかった」

 おそらく陽真先輩にでしょう、電話で報告をしているのを聞きながら、フードの方に近づいていく。

「華凜」
「その状態じゃフードを取れないでしょうよ」

 圧のある声は今回はスルーさせてもらいまして、その方の頭の近くにしゃがんで。

「失礼しますわ」

 ばっと、フードを取れば。

「……あなた」

 ぼんやりと記憶の中にある、護衛パーティーで私にちょっかいをかけてきた方が、そこにいらっしゃいました。

「あのパーティーで本気になっちゃったなんてねー」

 あのあと。
 杜縁先生が犯人の回収に来てくださり、とどめを刺そうとしているレグナをなんとか止めて引き渡し。

 事情聴取についていった上級生とは一旦別れ、状況説明も踏まえて三月にという予定は急遽変更し、同級生とちょうど近くだった我々の花壇へと歩く。
 美織さんの言葉にはただただため息をついて、思い返す。

 レグナも見覚えがあるということで杜縁先生が来るまでの間兄の尋問スイッチが入ってしまい聞いていくと。

 美織さんの言うとおりどうやらパーティーの方で本気になられてしまったようで。

 おうちが企業だったこともあり、護衛を雇いたいというその方のお父様について武闘会によく来ていたと。たまたま我々を見つけたので武闘会そっちのけでずっと見ていたと。

「えぇと、あの人だいぶ痛い目遭ってたはずなんだけどね……」

 ぽろっとこぼれた閃吏くんの言葉はスルーしたい。

「で、でも……華凜ちゃんになんともなくてよかったです……!」
『ひとまずこれで解決ということですわね』
「事情聴取の結果を聞いてからにはなるだろうがな」
『こっからはサツの仕事ですぜ旦那』
『大事になる前に捕まってよかったねー』

 ティノくんに笑って返し。

 ずっと黙ったままの兄へ、呆れた目を送る。

「みなさんもこう言っているように、ひとまず解決しましたわ」
「妹に手を出しかけたことへの制裁が足りない」
「あなたが捕まりますよ」
「正当防衛だよ」
「波風、おそらくお前のは過剰防衛だ」
『擁護しきれませんわよ』

 口々に言うも、兄は納得していない様子。それにまたため息をついて。

「アネモネー…」
『咲いてるですっ』
「ほら咲いていますって」

 うちの癒し担当である、先に花壇へとついていたクリスティアとユーアくんが嬉しそうな声を上げるので、それに乗らせるように背を押す。

 未だ不服そうではありますが構わず押して歩いていって。

「わぁ、きれいだわ!」

 思っていたよりも早く咲いているアネモネに目を向けました。

 花壇は一面の、白。

「白ですか」
「き、きれいです……!」
『確か色で花言葉って違ったんじゃなかったか?』
「まぁ、よく知っていますねウリオスくん」
『言葉はわかんねぇけどなっ』
「いくつかありますけども……」

 頭の中で花言葉を探していき。

「まずアネモネ自体は”あなたを愛しています”。白となると確か、真実、期待……そんなのがあがりますかね」
『なんか今日のことみたいだねー』
「たしかにそうかもしれませんね」

 こんな日に真っ白なものが咲いたとなれば。

 クリスティアに「近くで見よう」と引っ張られている兄へ目を向けて。

「真実もわかりましたし、これからの平和な日常を期待ということで。いかがです?」

 そう聞けば。

 やはりまだ納得は難しそうだけれども。

「……いいんじゃない」

 諦めたように笑ったので。

「華凜も見よ…」
「はいな」

 クリスティアに引っ張られるまま、花壇へと近づいて。

 真っ白なアネモネを目に焼き付けた。

『事件解、決…?』/カリナ


 悩まされていた視線も犯人が捕まったことで一段落し、ようやっと訪れた穏やかな日曜日。

「……」
「…」

 ソファにもたれ、恋人は俺の膝に頭を乗せ。それぞれゆっくりと読書を楽しむ。

 部屋に響くのはページをめくる音と、ときおりクリスティアが動いて生まれる布のこすれる音。心地よいその音をBGMにしながら。

「……」

 心中は正直そこまで穏やかではない。主に今読んでいる本のせいで。

 目を走らせる本の内容は普通の推理小説。夏頃読み切った男女の推理もので、シリーズ化されたと聞いて手に取ってみた。特段主人公に新たな仲間がというわけではなく、恋人である相棒と共に事件を解決していくのは相変わらず。

 そして前作同様、相変わらず恋愛描写が濃厚すぎる。

 前作でくっついてやることはひとまずやったはずなのに前より濃厚なんだが。どことなく”そういう”描写が直接的になっているような気がするのは気のせいでありたい。あえぎ声のような言葉が鉤括弧で括られているのは見なかったことにしたい。
 何故推理小説のはずなのに推理そっちのけで恋愛描写になるんだろうなこの作品。参考人の話聞いてる間もテーブルの下で手を繋ぐわ、事件が起きて悲鳴が聞こえたとき男は何故か女の腰に手を当てるわ。いやそこはただ単に守ろうとしてこう、引き寄せてという感じなんだろうが肩で良くないかと思うのは俺だけか?

「……」

 百歩譲ってそこはまぁ、まぁ良いとしようか。

 とりあえずお前ら推理するときにキスするのだけはやめないか。

 言葉が途切れ途切れになって読むのに苦労するんだ。ときおり変に切るからこっちが推理状態だわ。なんだ「あのおとこは、いってた」って。良くないだろ絶対その表記。せめて「言ってた」くらい漢字にして欲しい。

「……毎回何故俺はこれを読んでいるんだろうな……」
「なんだかんだ予想できないから…」

 ある意味予想を裏切られまくっているけれども。

 さすがにこれはクリスティアに読ませてはいけない。心に決めて、読書に飽きたのか俺の腹に抱きついてきたクリスティアの頭を撫でながら、とりあえずキリのいいところまで読もうと目を走らせていく。

 今回主人公が追っている犯人は市民から絶対的な信頼を得ている偉業者。表の顔は本当に市民に優しいが、裏は極悪非道で人を殺めることなど意にも介さない。一度だけその悪い現場を見たというところから物語は始まり、味方は相棒だけで共にそいつの悪を暴いていく。現在はそいつの会社に潜入し、情報を集めるというところなんだが。

 ”人のいないところに隠れ、私は彼女に口づけをした。”

 情報を集めろとのどから言葉が出掛かってしまった。

「…いみわかんねーって顔してる…」
「あながち間違えではないな……」

 恋人に空笑いをすれば物語の中ではまた濃厚なキスシーンが始まる。そして隠れてそんなことをしている間に、たまたま通りかかったらしい会社の奴が親玉の情報を少しずつこぼしていく。
 女からは甘い声が漏れ始め、下手をすればばれるかもしれない。そんなスリリングな状況を楽しむかのように男は──。

 そこまで読んで、これ以上はよろしくないと本を閉じた。

「おわり…?」
「このシリーズは精神が持っていかれる」

 次読むにしても気力を回復してからにしたい。結局キリがいいところまで行けなかったがそれもよしとし溜息を吐いて、ソファの背に深くもたれた。

 もたれた瞬間。

 視界にそっと細い手が映ったのがわかった。

「これはやめておけ」
「ざんねーん…」

 横に置いた本をさりげなく取ろうとしているクリスティアの手を掴んで、遊ぶフリをして読まれるのを阻止。俺の手に興味が行った恋人は残念と言いながらも特段不服そうな顔をすることもなく、すぐさま俺の爪をいじり始めた。

 嬉しそうに頬を緩ませて、俺がいつもするように爪をカリカリとひっかく小さな恋人。
 ときには手を絡め、すりすりと頬をこすりつけ、楽しそうに俺を見上げる。

 そんな恋人に微笑みながら。

「……」

 頭では読んだ直後だからか、本の内容が鮮明によみがえってくる。

 愛しい者との恋愛行為。手を繋ぐから始まり、キスやそれ以上まで。ぎりぎりを越えている気もするが一応本は指定ものではなかったので、どちらかと言えばキスシーンが多かった。

 読んでいて思うのは、真面目に推理しろというのが半分。

 そんなに気軽にできるものかという疑問が半分。

 恋愛行為は神聖なものと教えられてきた少女が恋人だからか、気軽にと言うとまた違うんだろうが、すぐさまそういった行為に移るのにはやはり驚きやら疑問やらが隠せない。

「♪、♪」
「……」

 現実ではこんなに手こずっているのに、とうのはきっと嫉妬だとわかっている。

 そして段々と問題はクリスティアのトラウマではなく自分の意気地なし具合ではないかとも。情けなさにそっと心の中で溜息を吐いた。

 もしかしたら彼女を狙っているかもしれないと気を張っていた数ヶ月も終わり、狙いはもう一人の幼なじみだったが幸い直接的な被害もなく。むしろ犯人の方に被害が甚大だったのではないかと思うがそこは自業自得ということで置いておいて。
 事情聴取の結果報告が残るもひとまず無事解決、クリスティアに近寄られたりそれによってトラウマのトリガーを引かれることもなく済み。
 もうひとつ恐れていた方の恋人の記憶については、親友が気を回して聞いてくれたことで俺達を忘れることもないと知れた。

 そんなトントン拍子で良いことづくめなのに、自分は未だ少女のような恋人に手を出せてはいない。

 行動療法も左右の腕の肩まで行ったところ。そこから恐らく鎖骨だとか首だとか沿っていき唇に行くんだろうが。

 肩まで行って数週間。結局進めず仕舞いである。

「これはもう俺の問題だろうな……」
「なにがー」
「何も」

 恋人の頭を撫でて誤魔化し、脳内では言い訳大会が始まる。

 長年忘れるかもしれないという恐怖心があったのだからすぐさま進めなくてもいいんじゃないかだとか、一気に進んで拒絶されるよりいいじゃないかだとか。これだから延々と進めず挙げ句の果てにトラウマを植え付けられ約一万年手を出せなくなって苦労したというのに。
 未だ自分は学習しない。

 ときには少し強引になってもいいんだろうか。けれど女はムードが大切だという。そしてファーストキスも。それをいきなり奪われるというのも心はやはり痛い。後一歩踏み込むというのは全然構わないが、突然その気もない状態で奪われるというのは嫌だろう。
 現に五月のときは上からというのもあったからかもしれないが怖がったし、八月のプールではムードもあってか彼女から積極的だった。せめて初めてのときくらいはムードというか、互いにというのがあった方がいいのではないか。

 そう言い訳しつつも、心の中で「だから」と声も聞こえる。

 そうやってペースに合わせ続けているからあぁなったんだろうと。逆に一回彼女に「もうできる」という植え付けのような感じで強引に行ってしまえばいいのではないか?
 幸い恋人は物覚えが良い。一度感覚を覚えればよほどじゃない限り「わからない」、「できない」はない。

 ただ強引に行けば拒絶の可能性があって、忘れて──いやだからその忘れるというのは解決されていて?

 んん?? だめだわけわからなくなってきたな?

 そんなのが顔に出ていたのか。

「だいじょうぶ…?」
「……何が」
「難しい顔してる…」

 見上げてきた少女に苦笑い。

「……頭の中で状況整理ができていなくてだな」
「一緒にする…?」

 お前のことで状況整理ができていないんだクリスティア。彼女からの申し出は丁寧に断らせてもらい、このすべてが落ち着いた中で残る課題に対しもう一度しっかりと状況整理をと思考に落ちた。

 まず、クリスティアは馬鹿な王子のせいで恋愛行為に対するトラウマ持ちである。直接的な被害はなかったがいやらしい現場を見たせいで最初の頃は異性に触れるのも嫌がった。
 二、王子の件でのストレスか、突然の一部記憶喪失が発症。しかし彼女の中では忘れるも体で恐怖は覚えているのか恋愛行為ができるわけではなく、震えなどが起きていた。そしてこの発症以降、彼女にとって不要だと思われるもの、ストレス負荷がかかるものはクリスティアの中で消去対象となり「いらない」の一言で記憶から消えるようになる。
 三、ひとまずヒーロー体質な恋人は突然走り出すこともあるので止められなかったらまずいと、恋愛関係なく手を繋いだり、抱きしめたりというのは可能にさせていった。

 それがざっくりとしたここ数千年の流れで、現在。

 わかっているのは、クリスティアのトラウマが発動するのにトリガーがあるのではないかということと、そのトリガーを回避していればある程度の恋愛行為ができること。そして、不要ではない──俺や幼なじみのことならばどんなに辛いことや悲しいことがあっても忘れはしないということ。
 実際怖かったであろう五月のことだって覚えている。

 ”あのとき”のことだって──

 ──待て。

 整理していく中。いろいろと解決したことも出てきたからか”それ”に思い至り、クリスティアより鮮明ではないが今度は頭の中の記憶を探っていく。

 あのときのこと。

 話は繋がっているが出来事としては分ければ二つ。

 一つは、一度クリスティアから拒絶を受けたこと。

 あの王子の現場を見て悲鳴を上げたのを聞いた俺が近寄ったときだった。錯乱した彼女は初めて俺に「触らないで」と拒絶をした。もちろん俺自身を拒絶しようとしたわけではないとわかってはいたけれど。クリスティアの中で何か取り決めでもあったんだろう、俺を拒絶したということに錯乱状態は加速し、王子も近づくわなんだで挙げ句の果てに吐いたというのは今でも鮮明に残っている。

 そしてもう一つ。

 記憶喪失が発症して、彼女に記憶のある部分から生きてきたところまですべて話してみろと言ったとき。

 すべてを事細かく、それこそときにはその日の服や食事という誰もがそこまで覚えていないと言うことを述べた中。

 王子の件だけでなく、俺を間違えて拒絶したということは、語られた記憶がない。

 今思えば。

 再び手を繋いだり抱きしめ合ったり、互いに触れられるまでのことを、クリスティアは話しただろうか。

 彼女が言う、「辛くても悲しくても」という、記憶。

 それが”ない”となると。

「……クリス」
「なーにー…」
「気になったことがあるんだが」
「?」

 嫌な予感を感じながらクリスティアを抱き上げて、膝の上に乗せる。不思議そうな恋人には悟られないよう、あくまで世間話をするかのように切り出した。

「前に夢で王冠を見たと言っていたな」
「うん…リアス様がつけてたやつ…」

 真っ赤でね、と。怖かった夢などすっぽ抜けているかのように話し出すクリスティア。それに微笑んでやりながら。

「その王冠、フィルノアールの国だったよな」

 実際は王冠をつけていた”後”に世話になっていた国の名前を口にすれば。

 記憶力の良い彼女はすぐさま違うと首を横に振った。

「それはもういっこあと…。真っ赤な王冠つけてたのはティレアーノの国…」

 頷いて。

「俺が三人兄弟の末っ子だったときの」

 今度は俺が正しい情報を、言うと。

 小さな少女はまた、首を横に振った。

「二人…」

 真ん中にいたその王子を消して。

 そこには今は突っ込まず、彼女の情報をまるで正しいかのように「そうだったな」とこぼす。登場人物以外は彼女の記憶が正しいと知っているので、合わせて話していった。

「ティレアーノはお前がメイドだったな」
「そう…! メイドと王子の禁断の恋…!」
「お前結構ノリノリだったよなそういえば……」
「身分差の恋愛はきっと女の子のあこがれ…」
「さいで……」

 苦笑いをこぼして、次へ。

「フィルノアールも貴族系に世話になった」
「リアス様顔がいいから時代が進むごとに貴族に声かけられてたね…」
「お前らが良い生活できるなら感謝ものだな」

 若干話が逸れ始めそうだがそうでなく。

 重要な部分は、そのフィルノアールの日々。
 ティレアーノで植え付けられたトラウマを抱え、最終的に記憶を失った人生。

「……苦労したよな」

 蒼い瞳を見ながら、核心は言わず。伺うように問えば。

 クリスティアは頷く。

 そうして。

「わたしのお義父さんが恋愛に厳しくて、手繋ぐのもだめって言うし、昔みたいに触れあうの、大変だった」

 彼女が作り上げた記憶が、耳に届いた。

 それを理解したと同時に、嫌な予感が的中してクリスティアの肩に埋もれる。

 溢れてくる心の中の疑問は今だけは聞かなかったことにして、平静を取り繕った。

「? どーしたのー…」
「……」
「リアスさまー」

 あどけなく聞いてくる少女に、

「……触れあえなかった分の埋め合わせ」

 なんて言えば、「今?」と笑う。

 その少女を抱きしめながら、頭の中には先日咲いたアネモネの花が浮かんでいた。

 白いアネモネの花言葉は、期待と真実。

 自分のことは忘れないんじゃないかという淡い期待。

 けれどそれは打ち砕かれて、彼女が大事だと思っていても、負荷がかかるのであれば忘れるものは忘れてしまう。突きつけられたのはただただ残酷な真実。

 結局自分は間違えないように、彼女に忘れられないようにうまく上書きをしていかなければいけないという今までと変わらない答えだけが残って。

「……踏みとどまって正解だったな」
「? なにがー」
「何も」

 ひとまずは悪魔に負けなかった自分を褒めたいと、段々身内の女だけでなく自分にも甘くなってきている気がするが、気づかなかったフリをして。

「……」

 何があっても手放したくない少女を、強く抱きしめた。

『ひとつの真実』/リアス