未来へ続く物語の記憶 March-VI

 こつり、ヒールを鳴らしながら廊下を歩いていく。
 手に持った荷物を落とさないように気をつけつつ足早に歩いて行って、ひとつのドアの前で足を止めた。

 ドアの隣に掛けてある札の名前を見て、間違っていないことを確認し。

 そっと口角を上げて、少々お行儀が悪いことは承知しながらそっとドアを開ければ。

「華凜ちゃん!」
『姐さんっ』

 その瞬間にわっと集まってくる同級生たち。

「こんにちは、お邪魔しますわ」
「荷物が多いな愛原」
「いろいろと入り用でして……あらありがとうございますユーアくん」
『任せるですっ』

 荷物はユーアくんが預かってくれて、部屋の奥へと歩みを進める。
 手を振ってくれているその方には微笑んで。

「体調いかがですか、ティノくん」

 まだ包帯が取れていないティノくんの傍で足を止めた。けれど彼はいつものように明るく笑う。

『大丈夫だよー! 忙しいのに来てくれてありがとう!』
「いいえ。むしろあまり来れずに申し訳ないですわ」
「愛原さん、そう言いながら一昨日とかも来てたじゃない。結構高頻度だよ」
「ぁ、あの、ちゃんと休めてますか……?」
「大丈夫ですわ。私が一番お休みさせてもらっていてうちの男性陣にも申し訳ないくらいです」

 心配そうな空気に笑って「大丈夫ですよ」と再度言うけれど。空気は変わりそうになくて。

「さらに申し訳ないんですが、まだ行くところがあるので」

 ユーアくんが置いてくれた荷物からお見舞いの品を出して、ティノくんのベッドへと置く。

「みなさんで食べてくださいな」
『前回ももらったですっ』
「このくらいしかできませんので。落ち着いたらまた改めてお礼などに参りますわ」
『愛原さん……』

 にっこりと全員に笑う。けれど空気はやはり変わりそうにない。
 それにいたたまれなくて、来て早々にも関わらず荷物を持った。

「華凜ちゃんもう行っちゃうのかしら!」
「えぇ、先ほども言ったとおりまだ行くところがあるので」

 踵を返し、ひとつ減ったおかげで少し余裕ができた手で同級生に手を振る。

「また来ますねティノくん。くれぐれもお大事に」
『退院するときにまた連絡するね!』
「えぇ、早い快復を願っていますわ」

 未だ心配そうに私を見る彼らに笑みは崩さないまま「では」と会釈をし、部屋を後にしてまた廊下を歩き出す。

「次は……」

 行き交う看護師さんたちに会釈をしながら、通路の壁にある地図で次の場所を確認。この数日で何回か来たけれど未だに複雑でここは覚えられない。

 クリスティアなら、なんて。

 隣にいない親友を思い、一瞬口角が下がり掛けた気がした。いけないとぐっと下唇を噛み、笑みを取り戻してまたヒールを鳴らし歩いていく。

 同じ階で棟が別。上の案内板を見て左に曲がり、ほんの少しの段差を下がり、渡り廊下を歩いて行って。

 重さで若干辛くなってきた腕にもうひとふんばりと心でエールを送って、ひとつの部屋の前で止まりました。
 もう一度札を見て、間違いじゃないことを確認。

 では、とノックをしようとしたら。

「あら」

 自分で開けるはずのドアが、勝手に開いていった。看護師さんかしらと上を見ると。

「おや」
「武煉先輩」

 出てきたのは武煉先輩。一瞬驚いた顔をしたあと、そのヒトはすぐに困ったように笑いました。それに、私は笑い返す。

「お休み中でしょうか」
「今日は検査中。フィノア先輩もついて行っていてね」
「珍しいんですのね、あなたが行かないなんて」

 話しながら、「どうぞ」と言うように前が開いたので。”紫電陽真”と札のある部屋へと入っていく。

「すぐおいとましますわ」
「荷物を下ろして少し休む時間くらいあるんじゃないかな」
「ではお言葉に甘えて」

 ベッドの隅をお借りし、重い荷物を下ろす。軽くなった腕を少し振っている間に目の前に小瓶が差し出されました。

「取りに来たのはこれだろう?」

 薄い紫色の瓶。

 一度武闘会でお世話になった睡眠香が入っているもの。

 それをお礼を言いながら受け取った。

「……足りなくなってしまって」
「アロマみたいに使っているんだったね。換気さえすればいいけれど。次回来るときには多めにとフィノア先輩に行っておきますか」
「……できればその頃には落ち着いているといいんですけれどね」

 同級生たちとは相反して、武煉先輩はいつも通りに笑って「そうだね」と返す。

「このあとはすぐに?」
「えぇ。陽真先輩にご挨拶しそびれてしまいましたね。フィノア先輩にも」
「今は周りに気を使わなくて大丈夫ですよ。必要なら連絡をくれれば届けに行きますから」
「……お心遣い感謝しますわ」

 少しだけ力なく笑って、ティノくんのときと同じように袋からひとつ、見舞いの品を出した。
 差し出せば、ドアを開けたときと同じように困ったように笑う。

「数秒前に気を使わなくていいと言ったはずなんだけどな」
「これは気を使っているのではなく礼儀です」
「一昨日ももらったけれど」
「ユーアくんにも言われましたわ。けれど短いお見舞いの時間というのだけでも失礼なのに、何も持たずにというのもできません」
「本当に気遣い屋だね。ありがたくもらっておくけれど」

 武煉先輩の手に見舞いの品がわたったのを確認してから、またひとつ減った荷物を抱えて。

「ではおいとましますわ」
「送ろうか」
「いいえ、テレポートで参りますので。ありがとうございます」

 笑ってお礼を言って、リアスに一言メッセージを送ってから魔力を練っていく。

「陽真先輩にお大事にとお伝えくださいな」
「了解」

 微笑んで見送ってくれる武煉先輩にもう一度「では」と伝えてから。

 荷物を抱えて、最後のその場所へとテレポートした。

 歩んできた穏やかで幸せな日常は、たったの五分のできごとで壊れてしまった。

 四人で受けたテストの日。レグナも、私もリアスも。クリスティアから離れていたたったの五分。
 ティノくんや陽真先輩、そして犯人から話を聞いた江馬先生伝手に状況を聞いたところ。

 女性に扮した男がクリスティア目当てで近づいてきたとのこと。

 私に視線を送ったお方も彼の策略のうちで、徐々に徐々にクリスティアに近づくための計画を練っていたらしい。

 ただその事前の計画性に反して、当日、クリスティアへいざ近づいたときには。

 己の欲に駆られ、最終的には駆けつけた武煉先輩たちにあっさりと捕まった。

 けれどその男が残して行ったものは大きくて。

 近くにいてくれたティノくんと陽真先輩はその男が吹き飛ばしたことで、ティノくんは全身を、陽真先輩は頭を強打し今は入院中。幸いどちらも命に別状はないものの、特に陽真先輩は頭を打ったということでしばらくの間しっかりと様子見をした方がいいとのこと。

 そして、愛する親友は。

「触らないでっ!!!」
「!」

 あの五分間がきっかけで何かを思い出したのか。

 当時、あの王子のときと同じように毎日錯乱状態が続いていた。

 降りたった庭で聞こえた声に、玄関の方へと駆け出す。
 万が一のためにともらっておいた合い鍵で家へと入り、リビングへと走っていけば。

「やだっ!!」
「クリス落ち着け」
「触らないでっ!!」
「ごめんって、もう触んないから。ね」

 小さな子に話しかけるようにしゃがんでいるリアスとレグナと。

 彼らから少し離れた隅で身を守るようにして膝を抱えてうずくまるクリスティア。

 睡眠香が切れて起きてしまったのかしら。
 ゆっくり近づいていって、レグナたちと同じ場所でしゃがみ、見えていないとわかっていながらクリスティアへ微笑む。

「クリス」
「…」
「なにもしませんから。こっちで座ってお話ししましょう?」

 ね? と。
 声を掛けてみるけれど。

「…」

 彼女は先ほどの叫び声が嘘のように何もしゃべらない。
 ただただぎゅっと自分を抱きしめてうずくまるだけ。

「クリスティアー」
「…」
「さっき美織さんたちと逢ってきたんですよ。みんなで遊びましょうねーって」
「…」
「陽真先輩も今度遊ぼうって言ってましたよ」

 嘘を織りませながら話してみても。

「…」

 ぴくりとも動かず、彼女は何も反応をしない。

 レグナたちと目を見合わせて、またクリスティアへと目を戻す。

 これが眠っているというならいいのだけれど。

 ゆっくり立ち上がって、クリスティアへと近づくと。

「!」

 ばっとこちらを見て、怯えたようにもう進めない隅へと体を逃がす。

「クリス、お茶しませんか」
「…」
「ね? おいしいお菓子買ってきたんです」

 変わらずいつもどおり話しながら、手を伸ばせば。

「触らないでっ!」

 ばしっと手を弾かれた。その痛みに手を引いて、数秒。

「っ、ぁ」

 クリスティアは何かに気づいたように驚いた顔をして。

「ぁ、っ、っ──」

 今度は声にならない声で叫びだしてしまう。それをなだめようと近づいてみても、

「いやっ!!」
「クリスティア」
「触らないでっ、っ!!」

 暴れて、泣き叫んで。

「っめ、んなさっ」

 一瞬正気に戻ったかと思えば、しゃくりあげながらこぼしていく。

「ごめ、な、さい…ごめんなさい」
「クリス、大丈夫ですから、ね?」

 そう言ってもふるふると首を横に振って泣いて、謝るばかり。それになんとか笑みは崩さないようにしながら、ポケットに忍ばせておいたものを取り出す。

「クリスティア、大丈夫ですからね」

 先ほどと違って近づけるようになった彼女にゆっくりゆっくり近づいていって。

「ちょっとだけお休みしましょうクリスティア」

 ハッとした顔を上げた瞬間に。

 もらった睡眠香を彼女へと掛ける。

「っ」

 逃げようとしたクリスティアの顔は数秒でまどろんでいき、そのまま。

 ぐったりと隅にもたれるようにして眠りへと落ちていった。

 すぐには触らないで、動かなくなったクリスティアを見届けて数秒。ようやっと息を吐く。体を痛めてしまいそうだけれど、ひとまずもう少し眠らせてから彼女を移動させるということで男性陣へと振り返った。

「お待たせしましたわ」
「……悪い」
「起きそうだったから睡陣で眠らせようと思ったんだけど」

 間に合わなかったと、互いに目の下にうっすらとクマを作った彼らは同時にこぼす。それにまたなんとか笑みを作って、小瓶を揺らした。

「フィノア先輩から追加でもらってきましたから。またそれで様子を見ましょう」

 頷いた彼らに頷き返し。
 今クリスティアが使っている元々リアスの場所として使われる予定だった部屋へと足を踏み入れる。

 恐らく抵抗で魔術を使ったのでしょう。ところどころ凍っている部屋に冷たい息を吐きながら、加湿器としても使えるアロマ器に手をつけた。

 その手が、ほんの少しだけ震えてる。

 見ないフリをして、加湿器を持ち上げるけれど。

「っ」

 震えた手で力が入らないのか、するりと手から抜け落ちていって、置いてある棚に横たわってしまった。
 クリスティアが好きな動物モチーフの加湿器。

 それを撫でながら、クリスティアへと目を向けた。

 映るのは、いつものようにふわふわと笑う少女ではなく。

 まぶたまで真っ赤にしてぐったりと横たわる、少しやせてしまった少女。

 この三日間ほとんど食事も口にしていない。

 起きている間は怯えるように逃げて叫ぶか、打って変わって泣きながら震えるか。

 糸が切れたようにぼんやりと宙を見つめるかのどれか。

 話しかけてもいつものように「なーに」なんて返してはくれない。唯一反応するのは近づいたときの拒絶のみ。

 加湿器を撫でている手を、ぎゅっと握りしめた。
 無意識に下唇を噛む。

 彼女を見てわき上がってくるのは、懺悔と後悔ばかり。

「……ねぇクリス」

 もう少しだったのにね。

 あなたが決めた頑張ろうとしたことまで、あと少しだったのに。

 怖い思いさせてしまってごめんね。
 今だって怖いはずだよね。辛いはずだよね。

 いつか聞いた、あなたの心の決めごとを思い返す。

 愛を言えないあなたの小さな自分への約束。

 言えない代わりにすべてを捧げて、リアスのすべてを受け入れること。

 大好きなヒトを拒絶しないという、決めごと。

 それを破ってしまっていることも彼女の錯乱の理由のひとつなんでしょう。

「っ、……」

 あのときすぐに駆けつけていればこんなことにならなかった。

 小さな親友の頑張りに、少しだけ無理を言っても背中を強く押していればよかった。

 そうしたら、きっと。

 頑張れたんだと言う幸せそうなあなたに逢えたのに。
 レグナと微笑んで、彼女と幼なじみを抱きしめることができたのに。

 やってくることのなかった日々に、喉元が熱くなる。

 泣くなと言い聞かせても、目から何かがこぼれ落ちてしまう。

 その間にも、怖い夢を見てしまったのか、目覚めたクリスティアの叫び声が家に響く。

 それに、いけないとわかっていつつも耳をふさいで。

 彼女にとって地獄のようなこの日々が、早く終わるようにと心の中で強く願った。

『クリス錯乱状態』/カリナ


 コン、と開いているドアを指でノックする。
 けれど目の先に映っている小さな親友は反応しない。

「クリス」
「…」

 名前を呼んでみても、ベッドの上で膝を抱えてうずくまっているだけ。

「入るよ」

 聞こえてはいるだろうからそれだけ言って、一歩だけ部屋に足を踏み入れた。数日前の抵抗の名残でほんの少し床に残ってる氷の魔術で足が冷える。構わず入ってすぐにある棚に、手に持ったトレーを置いた。

「ご飯、食べない?」
「…」
「冴楼が作ってくれたよ」
「…」
「道化たちもお菓子いっぱい作ってきてくれたよ」

 ホワイトデーのときみたいに作ってる最中の動画付きで。

 一定の距離を保ちつつスマホをかざしても、親友は振り向くこともしなかった。
 それに困ったように笑って、インターホンが鳴ったのが聞こえて一歩下がる。

「食器、あとで片しに来るから」
「…」
「一口くらい食べとけよ」

 それだけ言って、一切反応することのない親友がいる部屋から遠ざかっていく。
 ドアは閉めずに最後に中を一度見るけれど。

 小さな親友は延々と膝を抱えているだけ。

『レグナ殿……』
「……多少は食べてくれるでしょ。いつも中身少し減ってるから」
『……』

 心配そうな冴楼には「大丈夫だよ」と力なく笑って。

 もう一人の親友が先に言ったであろう玄関に、来訪者を迎えに行った。

 三月二十五日。春休みに入って二日目。すべてを狂わされてから五日目。
 その間で、リアスとクリスティアの家に少しだけ来訪者が増えた。

 みんなが時間のあるときに様子を見に来てくれる。本人は一切反応をしないままだけど。
 それでもとみんな、楽しい話を持ってきてくれた。

 それは今日も同じ。

「せ、刹那ちゃん。おすすめのマンガ、も、持ってきました!」
『氷河さんが好きそうなお菓子も持ってきましたわ』

 部屋のこれ以上は進まないでねといったラインから、雫来とエルアノがクリスティアに話しかけてる。そのまま雫来はいつものマシンガンが始まり、おすすめの場面だとか巻数だとかを喋り出す。一生懸命話している姿に俺たちの顔がほころんでしまった。

「効かなくなった割にはおとなしいじゃなぁい」

 ほんの少しだけ気を緩めて、掛けられた声に前を向く。もう一人の来訪者であるフィノア先輩はいつものように飴を加えながらソファに体を沈めて雫来たちを見てた。
 それに肩をすくめてから目の前のカップを手にとって、

「眠るのが嫌だったのか、一周回って落ち着いたのかはわかんないけど」

 妹が少しでも落ち着くようにと入れてくれた紅茶をすすった。

 この五日間、めまぐるしくいろんなことが変わっていった。
 日常が変わってしまったこと、来訪者が増えたこと。

 そして錯乱状態に入ってたクリスティアに、フィノア先輩からもらった睡眠香が早々に効かなくなり。

 激化するかと思ったそれは、嘘のようにほとんどなくなったこと。

 一定の距離から踏み行ったり、彼女に触ろうとすれば変わらず叫び出したり大泣きしたりはするけれど。
 この数日間ずっとあった、眠りから覚めて叫び出すというのはほとんどなくなった。

「自然に寝落ちたあとくらいじゃないかな。怖い夢かなんか見て夜中に叫び出すくらい」
「それもほとんどないがな」

 隣に座る親友には苦笑いを返す。
 目の前の先輩はそれだけで、クリスティアがほとんど寝てないのを悟ったのか、困ったように肩をすくめて口の中の飴を転がした。

「ほんとならもっと強い睡眠香でもあげたいんだけどぉ」
「あれ以上は無理でしょ」

 言えば、クリスティアに話しかけてる妹を含む女子たちに目を向けまま頷く。

「あれがほぼほぼマックス状態だからねぇ」
「劇薬並みだしね」
「そぉ」

 一回吹きかけただけで数秒で寝落ちてしまうフィノア先輩の睡眠香。
 前にリアスの検閲で調べもしたけど、睡眠を促す成分が先輩の言うとおりほぼマックスで調合されてる。

 それに、クリスティアはたったの数日で慣れてしまった。

 一切効かないというわけじゃないけれど、本当なら数時間、ヒトによっては丸一日眠るくらいの強さがあるのに、クリスティアはほんの数分くらいしか眠らなくなってしまった。
 かなりの高頻度で使ってたとは言えどこの速度で慣れたのはクリスティアの抵抗も入ってるのか。真実はわからないままだけど。

「まぁ無理矢理眠らせるより、このままみんなで声かけて少しずつ落ち着いてってくれれば一番よねぇ」
「……届いていればいいんだがな」

 リアスが振り向いたのが横目で見えて、俺も女子たちがいる方を向く。

 ドアに一歩踏み入れた状態のカリナと雫来、エルアノ。
 三人は一生懸命、あることないこと楽しそうに話している。「ねぇ?」とクリスティアに答えを求めながら。

 けれど反応はなく。

 時折ぐっと歯を噛みしめるような音に俺も強く拳を握りしめて。

 カップの方に振り向いて、紅茶に映る自分の顔をにらみつけた。

 コン、と開いているドアをノックする。目の先に映っている小さな親友は相変わらず反応しない。
 暗くなった家の中。来訪者は帰り、カリナは荷物を取りに、リアスには気分転換も兼ねてそれを手伝いに行かせたので今はクリスティアと二人きり。

「クリス」

 声を掛けてみてもやっぱり反応はしない。

「……入るよ」

 一歩だけ部屋に足を踏み入れて、昼頃置いたトレーの上にある食事に目を移す。さっきまで雫来たちがいたからか中身は減ってなかった。

「食べない?」
「…」
「あっためよっか。それともなんか違うのでも食べる? エルアノのお菓子もあるよ」

 床に置いてあるたくさんのクリスティアへのプレゼントの中から、さっきエルアノが持ってきたお菓子を手に取った。相変わらず高級そうなお菓子だなと笑いをこぼして、封を開ける。

「ここのお菓子カリナも前においしいって言ってたやつだよ」
「…」
「クリスが好きなクッキーも入ってんじゃん」
「…」
「……食べない?」

 そっと振り返って小さな親友を見てみても。

 彼女は膝を抱えて、ベッドにうずくまったまま。

 まるで死んでるみたいに、ぴくりともしない。

 けれど、きっと俺だけ。

 彼女が今一生懸命に何かに抵抗しているのを、知ってる。

 反応をしないクリスティアを見つめながら、音を消すように黙って壁にもたれて座る。
 意識を集中して、目を閉じた。

「…ぃ、…、ない…」

 聞こえるのは、恐らく今のリアスじゃ聞こえないくらい小さな小さな声。自分の呼吸の音さえも抑えないと、俺でも聞こえないくらい、小さな。

「…ぃ、──ぃ」

 昔と同じ。
 必死の抵抗。

「…いらなく、ない…」

 小さな声でずっと、ずっと。

 記憶を消してしまう合言葉の逆をつぶやき続ける。

 消してしまいたいくらい怖い思いと戦い続けているのを、きっと俺だけが知ってた。

 そして前回は、それに負けてしまったことも。

 負けてしまった理由や今もなお戦い続ける理由までは、わからないけれど。

「ぃらなく、な…い、──くない」

 必死に抵抗を続けているクリスティアに喉が熱くなってくる。

 言ってしまいたくなる。

 辛いなら忘れてもいいよって。

 それでクリスティアが、親友や妹に笑ってくれるなら、いいんだよって。

「……クリス」

 届くことはないと知っていながら、名前を呼ぶ。誰も見ていないからといいわけをして、目から流れるものはそのままにして。

「……そろそろ遊ぼうよ」

 みんなで。

 この結果を引き起こしてしまった俺が言える立場じゃないのに、小さくこぼして。

 反応のない親友を抱きしめられない代わりに、自分の膝を抱えた。

『手を伸ばせば届く距離にいる小さなヒーローへ。また笑顔で帰ってきてくれますか』/レグナ