狂気シリーズ

 ”紅は血の色、だめな色”。

 みんながこわがる悪魔色。

 でも、わたしにとっては、初めて”わたし”を見てくれた、大好きなあなたの色。

 そんな”紅”に埋もれて眠れたら、わたしはどんなに幸せなんだろう。

「りーあーすーさーまっ」
「っと」

 大好きなヒトに駆け寄って、そのひざに飛び乗る。

 当たり前のように受け入れてくれて、腰を支えて。

 紅い瞳がわたしを見た。

「どうした」

 やさしく笑ってくれるその紅い瞳が大好き。

「…」
「うん?」

 じっと見つめたときのちょっと不思議そうな紅も。

「なんでもなーい…」
「なんだそれ」

 答えなんてわかってたくせに、そう言ったら笑って歪む紅も。

 ぜんぶ、ぜんぶ。

「……!」

 愛おしくて、大好きで。そっと目元に触れた。
 リアス様はいやがることもなく、また紅い目でわたしを見る。

 じっと目を見返しつつ目元を親指でそっとさすったりしながら、紅いきらきらを見ていたら。

 今度はおかしそうに、その紅が変わった。

「相変わらず物好きだな」
「うん」
「欲しいならくれてやるが?」

 手を取られながら、抱きしめられる。

 紅い目は見えなくなっちゃったけど、代わりにあったかい”紅”が巡る体に包まれて、目を閉じた。

 でも首は、横に振る。

「…いい」

 ぎゅって、リアス様の服を掴んだ。

「これはあなたに収まってるからきれいなの」

 ただ、もしもかなうなら。

 最後の言葉は言わずにいるけど、強く強く抱きしめられたから、あなたもきっと気づいてる。

 抱きしめ返しながら、あったかい紅の中で意識を遠くに落としていった。

 あなたに恋に落ちたのはいつの間にかだったけれど、”紅色”が好きになった瞬間だけははっきり覚えてる。

 あなたが初めて名前を呼んでくれたとき。

「クリスティア」

 満開の桜の下。
 みんなに遊んでもらった日。

 自己紹介をしていって、すぐに名前を呼んでくれたあなたにびっくりして。思わず目を見開いて、自分とは反対の紅を見た。

「…」
「? なんだ」
「名前…呼んだ…」
「今お前が自分で”クリスティア”と言っただろう」

 いやそうなんだけれども。

 そうじゃなくて。

「…水女、って、呼ばない」

 小さく言ったら今度はそのヒトがびっくりした顔になる。

 自分で”水女”が嫌なくせになに言ってんだろう。呼ばせたいわけじゃないのに。今言ったことで、せっかく呼んでくれた”クリスティア”が変わっちゃったらどうしよう。自分の言葉に後悔し始めたときだった。

 ふって、目の前のヒトが笑った。

「崇めてもいないものの名を呼べと?」

 そんなのはごめんだ、なんて言葉に今度はまたわたしがおどろく番。思わず固まっちゃって、頭の中で何度もその言葉を繰り返した。
 やっと”水女”と呼ぶ気がないってことに気づいたところで、リアスはカリナやレグナと笑いながらわたしの手を引く。

 みんなが笑っているのに、一番目を引くのは真ん中にいる紅色。

 遊ぶんだろって言う目は、みんなが怖いって言うのに全然怖くなくて。

 悪魔だとか血だとか、不吉なものって教えられていたけれど、とてもとてもやさしくて。

 吸い込まれるように、手を引かれていった。

 その紅い色は、死にたかったわたしに全部くれるって言った。
 一番に愛してくれるって。

 だから生きようって言ってくれた。

 一番欲しかった言葉にうなずいたら。

 そのヒトは本当に、わたしに全部をくれた。

 名前を呼んだらこっちを向いてくれて、抱きしめてくれて。
 敬語も使わずにあいさつをしてくれて、たくさんたくさん遊んでくれて。

 好きだって言ってくれた。

 ずっと愛してくれたあなたがわたしも好きだよ、大好き。

 あなたを、愛してるよ。

 そのときうれしすぎた上に照れちゃって愛の言葉は言えなかったけれど。めいっぱいうなずいて、あなたに愛が伝わるようにたくさんたくさん一緒にいた。

 だけど。

「クリスティア」

 終わりは、突然。

 明日みんなで一緒にお祝いしようねって言ったのはかなわなくて。

 痛みと一緒に、大好きな紅が見えなくなった。

 死んだってわかったのは、真っ白な空間に来たとき。

 思い返すのはあなたと出逢った日々の中の、後悔。

 愛してるが言えなかった。

 たった五文字。
 好きって言う二文字すら、わたしはあなたに言えなかった。

 悔しくて悲しくてつらくて、生まれ変わりを何度も何度も断った。

 あなたに逢いたい。

 今度は愛してるを伝えるから。

 どうか──。

 そんなわがままは、セイレンが叶えてくれた。
 愛の言葉が言えない代わりに、この体のまま、記憶のまま。生まれ変われるって。

 また逢える。

 また四人で一緒に過ごせる。

 今度こそ、あなたに愛を伝えられる。

 天界から消える中で、心の中はうれしさで満たされてた。

 でもうれしいって気持ちになれたのは、ほんの数回目までだった。

 あなたに言いたかった愛の言葉が、もう言えないってちゃんとわかるまで。

 今度こそ、今世こそ。あなたに「愛してる」を言うんだって決めているのに。

「、──、っ」

 口を開いて”それ”を言おうとすれば、のどが焼けるみたいに熱い。

 痛くて、苦しくて。それだけで涙が出てくる。

「っ、ぁ、っ…」

 何度試しても同じ。あなたがいないところだと言えるのに、目の前にするとのどがおかしくなる。
 痛くて熱い、苦しい。

 でもそんな気が狂いそうな苦しさの中でも、何度も何度も自分をせかす。

 ちゃんと言って。

 あなたに、”愛してる”って。

 早く。

 がりってのどが鳴って違う痛みが走ったとき。

「もう無理しなくていい」

 のどをおさえてた手が引っ張られて、あったかいぬくもりに抱きしめられた。

 紅い目は見えないけれど、声がとても悲しそうだから。きっとつらそうな顔してる。

 まだのどが痛いから声は出ないけど、ごめんなさいって伝えるように抱きしめ返した。
 それにまた強く強く抱きしめられて、大好きな声が落ちてくる。

「俺はお前が傍にいてくれるだけで十分伝わる」

 そうやってやさしくされたら、甘えちゃうよ。
 のどが痛いからなのか、リアスのやさしさからなのか。涙を流して。

 結局そのやさしさに甘えてしまう弱い自分に、今だけはって言いわけしながら。
 あったかい体温の中でうなずいた。

 それから諦めずに何度か試したけれど、結局「愛してる」は言えなかった。
 言おうとするたびにすごい痛みが出るから、だんだんリアスが「声が出なくなったら」って心配するようになって。
 声が出なくなっちゃったらそもそも言えなくなっちゃうし、それは困るから。言葉じゃなくて行動で愛情表現をするようにした。
 手を繋いだり、抱きしめあったり。リアスの言うこともちゃんと聞いて、なるべく心配させないようにして。
 そうして自分なりの愛情表現で伝えるようになって、しばらく経ってから。

 わたしにとっての、本当の地獄が始まった。

「好きですっ」
「あなたを愛しています」
「好きになってしまったんです」

 リアスがいろんなヒトからモテ始めた。

 最初はよかったの。
 昔から何もしてないのに悪く言われてたのがようやくなくなったねって。みんなでちょっと他人事に笑ってた。

 でも。

「リアスさん」
「今日はこういうのを持ってきたんです」
「ねぇ、わたくしとお出かけしましょう?」

 尋常じゃないくらいのモテ具合に、だんだんと自分の余裕がなくなってくのがわかった。

 みんながことあるごとに「好き」って言う。

 わたしを見れば、「かわいい妹さんですね」って言った。

 リアスが「恋人だ」って言えば。

 頭のてっぺんから足先まで見られて、最終的に笑われた。

 どうせ「こんな子が?」なんて思ってるんでしょう?
 そして「こんな子なら私の方が」って思った人たちは、わたしの目の前でどんどんアピールするようになった。

 慕っています。
 大好きなんです。

 愛しています。

 わたしが言えない愛の言葉を、目の前で。

 家にまで押し掛けてやってくるそのヒトたちに、だんだん自分がおかしくなってるのはなんとなくわかってた。

「…」

 日中のそれが焼き付いて、不安で夜も眠れない。

 もし女の人たちが来ちゃったらどうしよう。
 わたしが寝てる間に、リアスに「愛してる」なんて言われたらどうしよう。

 こわい。

 もしも──。

 今、閉じているこの紅い瞳が。

 わたし以外を見るようになってしまったら──?

 考えただけでひゅってのどが鳴った。

「りあす」
「……」
「、りあす」

 こわくて、そんなのいやで。リアスの服のすそをめいっぱい引っ張る。

 でもまだその紅は閉じたまま。

 目あけて。

 今その閉じた世界で誰といるの?

 わたしとは違うヒトと、いるの?

 やだ。

「りあす、やだ」
「……ん」
「やだ、りあす」

 頭がぼうっとする。なんとなく息が浅い? でも今、手離したらいなくなっちゃうかもしれない。

 必死に名前を呼んで、服のすそを引っ張ったら。

 ゆっくりゆっくり、まぶたが開いた。

 わたしはどんな顔してたんだろう。紅い瞳がびっくりしたように開いて、そっとあったかい手がほっぺに伸びてくる。

「……どうした」

 やさしい声が耳に落ちてくる。紅い目が、やっとわたしを見てくれた。
 それにほっとして、一気に涙が止まらなくなる。

「、っ、ぅ」
「怖い夢でも?」

 抱きしめてくれようと引っ張られたのには、ちょっとだけ抵抗した。不思議そうな顔をするけれど、気にせずじっと紅い目を見つめる。

 ぐすぐすしながらずっと見つめてたら、リアスはあきらめたのか。そっとわたしの涙をぬぐい始めた。

「眠れないか」
「…ん」
「何か飲むものは?」

 言いながら目が、わたしからそれる。

 やだ。

「いらない」
「ん?」
「こっち見て」

 近づいて両手でリアスのほっぺに触れて、暗い中でも光る紅い目をわたしにまっすぐ向けた。

 驚いて目が見開いたのは、ほんの一瞬。きっとわかったのかな。
 うなずいて、やさしい目でわたしを見ながら。髪をなでてくれた。

「ちゃんといる」
「…うん」
「他の奴の言葉など気にするな」
「…」
「俺にはお前しかいらない」
「…ん」

 大好きな声に、大好きな体温に、目に。全部が満たされて落ち着く。眠りたくないけれど、だんだんまぶたが落ちそうになってくる。

 このまま寝ちゃうのかな。

 まだちょっとだけ、こわい。

「りあす」
「うん?」
「…手」

 そっと伸ばしたら、あったかい手がわたしの手を包んでくれた。それにまたほっと息をつく。

「朝まで離さない…?」
「起きても離さないが?」

 なんて言葉に思わず笑ってしまって。

 寂しいけど、落ちてくるのに従って目を閉じる。

 そうやっていつの間にか寝て。

 でも、頭に残った女の人たちの声は消えてなくて。

 いやな夢を見て、また目が覚める。

 どのくらい寝たかなんてわからない。
 そんなの気にならないくらいいやな映像が頭に焼き付いてて、自分を抱きしめる。

 見る夢はいっつも同じ。

 女のヒトと一緒に、わたしの目の前からあなたが遠ざかってく夢。

 ねぇ。

 どうして遠くにいっちゃうの?

 わたしがあなたに「愛してる」を言えないから?

 でもリアスは言えなくてもいいって言った。

 じゃあ、まだ愛が足りなかったから?

「…りあす」

 なにをあげればあなたはずっとわたしの傍にいてくれる?

 わたしの全部をあげれば、大好きな紅い瞳はわたしだけを見てくれる?

 どうやったら、あなたの瞳はわたしだけのものになるの。

 どうしたらこの紅は、わたしだけを包み込んでくれるの。

 毎日のように見せつけられる中で。

 頭は、変な方向に行ってた。

「今日も麗しくて本当に好きです」
「お慕いしています、リアスさん」

 毎日のように来てたヒトが、また来た。
 着物をちょっとだけはだけさせて、厚化粧して。気持ち悪い声を出して。

 いやな言葉を紡いでく。

 そして紡いだらわたしを見て、バカにしたように笑う。

 むかつく。

「ねぇリアスさん」

 名前呼ばないで。

「……」

 リアスも、あきれた目でもそんな人たちに向けないで。

 わたしを見て。

 そう思ったのと、遠くで叫び声が聞こえたときに。

 あぁ、これだって、思ってしまった。

 昔からの反射なのか、それとも自分のその声に反応してなのかはわからなかった。
 勝手に体が走り出す。

 名前を呼ばれた気がするけれど、構わず走っていって。

 喧嘩してる猫と犬のビーストの中に突っ込んでいった。
 お互いにひっかきあってる間に体をねじこんで、ぐいぐい引き離しながらケンカを止める。言い合ってるけどそんな言葉わたしには聞こえてなくて、ただただ。

 そのひっかきあってる間に入ることに、夢中になった。

 ほんの少し体が痛い気がする。ひっかかれてるからたぶん血が出てるかもしれない。
 でも大丈夫。”紅”はリアスの色。

 リアスが守ってくれてるから、痛くない。

 たぶん正常だったならなに考えてるのってなったのに、今はそうだよねってすとんと落ちて。無我夢中でそのケンカを止めた。

「クリスティアっ!!」

 気づいたときには声が聞こえて、思い切り引っ張られてて。
 遠くになってくビーストたちから自分の体を見たら。

 切り傷とかひっかき傷で、ボロボロだった。

 傷口からは真っ赤な血が流れてる。

 あぁ──。

 リアスの色だ。

 まるで抱きしめられてるみたい、なんて。ちょっと笑いがこぼれてしまった。

「クリスティア」
「…!」

 手が引っ張られて、声の方向を見る。そこでも、顔がほんのちょっとゆるんじゃった。

 心配そうな色が、ほんの少しだけ心にちくっとしたけれど。

 あなたがわたしだけを見てくれてる。

 それがうれしかった。

 紅い色に包まれて、大好きな紅い色がわたしを見てくれてる。

「…ごめんなさい」

 口からはそんな言葉が出たけれど、心は満たされてた。

 紅はリアスの色。
 体から流れる紅は、きっとリアスに抱きしめられてる。
 そうしてリアスに抱きしめられたら、ほんとのリアスがわたしだけを見てくれる。

 そんなわけのわからないことに夢中になって、前よりももっと体が勝手に動くようになって、けがが増えた。

 でもケガをするたびに、もっとおかしくなっていった。

 紅はリアスの色。

 体から流れる紅は、きっとリアスに抱きしめられてるはず。

 なのに。

 わたしから流れてるのはリアスの血じゃない。

 じゃあ自分のは、なに?

 紅はリアスの色。だから紅い血はリアス。でもこれはリアスの血じゃない。わたしはリアスじゃない。

 リアスに抱きしめられてるわけじゃない。

 リアスがいない。

 わたしの中に。

 あなたがまだ、いない。

「…」

 自分がおかしくなってしばらく経った頃。
 リアスの様子も変になってきて、いつからか外に出るなって言うようになった。

 ケガをすることがなくなって、紅に抱きしめられることは減ったけれど。

「クリスティア」

 代わりに紅がもっとわたしだけを見てくれるようになって、寂しくなんて全然なかった。

 名前を呼ばれて振り返れば、どこかうつろだけれどほほえみながら歩いてくるリアスがいる。それだけで幸せ。

 でもそのヒトはその日、もっと幸せをくれた。

 

 しっかりわたしの目を見ながら、目の前でしゃがんだリアスは。

 そっと、わたしの胸中に手を添えて、

「ここが欲しい」

 紅を歪ませて、そう言った。

 最初はよくわからなかったけれど、愛おしげにこぼしてく言葉に、どんどんわたしの口角があがっていく。

 痛みを上書きしたい。

 わたしに魔力を注いで、自分の証を刻みたい。

 わたしの体をひとつずつ、自分のものにしたいって。

 あなたの”愛”がわかる言葉ひとつひとつに、心が満たされていく。

 あなたが刻んだ痛みがわたしに残る。

 あなたの魔力がわたしに入る。

 あなたがわたしに”証”を刻む。

 少しずつ、わたしの中にあなたが増えていく。

 あぁ、これなら──。

「さみしくないね」

 ゆっくり押し倒されながらこぼした言葉には、首をかしげられちゃったけど。

 わたしの心も体も、満たされてた。

 初めてかもしれない。

 そんな満たされた心で、最期の日を迎えるのは。

 打ち抜かれた体は痛い。

「り、ぁす」

 目の前には大好きなヒトがかすんで見える。

 あぁまた言えなかったなって後悔もちゃんとあった。
 大好きも、愛してるも、好きも、今までと変わらずにあなたに伝えたかった。

 でもそれ以上に、心はあったかい。

 伸ばされた手をいつも通り取ろうと歩き出した足は、もうぼろぼろで数歩歩いただけで崩れていった。
 いつもなら、もう紅が見えなくなるからとても悲しいけれど。

 今回はもう、そんなことない。

 悲しそうな紅い瞳を見てたらばしゃって音がして。いつの間にか見えてるのは真っ赤な紅。
 心がどんどん満たされてく。

 でもそれを知らない大好きなヒトは、消えゆく意識の中でわたしの名前を呼んだ。

 死ぬことを、守れなかったことを悲しむように。

 ねぇ大丈夫だよ、リアス。

 悲しまないで。

 わたし寂しくないよ。
 守られてるよ。

 だって。

 今わたし。

 この真っ赤な海の中で、あなたに抱きしめられているんだから。

 あなたの魔力や血が混ざった自分の”紅”に、そっと口元があがって。

「また逢おうね」

 そのぬくもりを感じながら、意識を落としていった。

『願わくば、いつかはあなたの”紅”に埋もれて眠りたい』/クリスティア


 一途に愛し続けて純愛だね、なんて。

 そんな言葉を聞く度に、笑いが出る。

 想いも時間も、感覚さえも。すべてを自分のものにした愛の。

 どこが純愛なものか。

「りあすー…」
「うん?」

 昔は確かに純愛だっただろうと思う。

「あーそーぼ」
「なにして」
「んー…」

 近寄ってきた愛しい恋人を撫でて、抱きしめて。
 どうしようかと悩んでいる恋人が「決まんなーい」と俺を見上げて言えば、二人して笑って。

 そのまま寝ころんで、お互いすり寄りながら。決める気もないまま穏やかな時間を過ごしていた。

 当時は争いも多くて生きることに精一杯だったが、そのときだけは気が抜けていて。愛しい恋人に癒されて、ほんの少しだけ運命のことも忘れられていた。

 少しずつそんな癒されている余裕も無くなっていったのは、もう何百回繰り返したかわからなくなってきた頃。

「りあ、す」

 何度その光景を見たんだろうか。数えることも嫌になるくらいというのは確かだった。

 ボロボロな手を伸ばしてくるクリスティア。その手をとりたくてもいつもそれは掴めないまま。結局自分は何かに貫かれて、景色もいつの間にか真っ白な空間に変わる。

 あぁ、また。

 守れなかった。

 悔しさにその真っ白な空間へ自分の手を叩きつける。

「……クリスティア」

 どうしたら守れる?
 どうしたらクリスティアの手をとれる。

 どうしたら傷つかない。どうすればこの運命からクリスティアを解放できる。

 そう、彼女の残酷な最期を見る度に、だんだんと心の余裕も無くなっていった。

 それを察してか、いつからクリスティアの態度も控えめになっていった。

「りあす」
「……なんだ」
「…あそぼ」

 おずおずと名前を呼び、緩く裾を引っ張って。窺うように俺を見上げてくる。

 そんな顔をさせたいわけではないのに。またいらいらが募る。

 自分へのいらつきをなんとか彼女に見せないように頑張って、頷いた。

「何して」
「んと…」

 けれど棘のあるような声に、クリスティアはおびえるように必死に周りを見渡す。

「っ…」

 きょろきょろと探しても、家の中では見つからなかったんだろう。申し訳なさそうにうつむいて。

「…ごめん、なさい…」

 怒っているわけでもないのに、彼女は小さく謝った。

 情けない自分にぎりっと奥歯を噛みしめる。
 いらいらして、腹の奥がむかむかして。

「…っ!」

 勢い任せに引っ張って、強く抱きしめた。このどうしようもない怒りをぶつけるように、強く、強く。

 クリスティアは、ただされるがまま。

 そんな彼女に、このまま怒り任せに口づけしてもされるがままだろうか、なんて。よこしまな考えばかり浮かぶ。

 口づけて、乱して、全部を自分のものにできたのなら少しは満たされるだろうか。

 けれど、そんなのが彼女の「初めて」になるなんていうのが嫌だという理性も働いて。ただただ抱きしめる力を強くする。
 もしかしたらこのまま折れてしまうかもしれない。そのくらい強く抱きしめていても心は満たされない。

「……」

 いっそ。

 このまま壊してしまえたら楽なのに。

 ふと浮かんだ考えに。

 きっと今自分は危ういところにいるんだろうと、どこか遠くに見てるような感覚で思った。

 時間が経てば収まっていくんだろうと他人事のように思っていたその心の中のもやもや。

 それは結局、収まることなんてなく。

「……」
「…、ごめん、なさい」
「……」

 逆に彼女に傷がつく度に加速していった。

 元からヒーロー体質なクリスティア。
 困ったヒトがいれば放っておけない。昔からそこは変わらず、愛すべきところだったけれど。

 この時期だけは、ただただ疎ましかった。

 外に出て困った奴がいれば駆け出していき、場合によっては傷を負って帰ってくる。
 今だってそうだ。

 何と闘っていたのかは知らないが体中ひっかき傷や擦り傷だらけ。

 自分じゃない者がつけた、傷。

 気に入らない。

 頬に手を添えて、抱きしめる。少しだけ冷たい体温を感じているのに、心の中は嫌に熱い。

 気に入らない。

 なんで他の奴がクリスティアに触るんだ。

 レグナやカリナならまだしも、誰かも知らない奴が、なんで。

 何でこんな簡単に──。

 心からわき上がる闇のようなものを感じながら、彼女を抱きしめる力を強める。

 肩が少しびくついたことに、一瞬だけ我に返った。

 怒られると思っているんだろう。確かに怒りたい。傷ついたことにも、他の誰かに触れさせたことにも。

 けれど、自分に怯えさせるのはもっと気に入らない。

 ゆっくり一度深呼吸をして、

「……帰るか」

 なんとか平静を装って、努めて優しく言った。

 頭を撫でて、先ほどとは違って優しく抱きしめて。

 自分は怖くないと言い聞かせるように、「な?」と言えば。

「…ん」

 緊張していた体は力が抜けていき、俺に身を委ねる。
 自分に安心して抱きしめ返してきた彼女に、ほんの少しの優越感。

 じわじわ這い寄ってくるどす黒いものには、彼女に気づかれないようにふたをして。

 クリスティアの手を取って歩き出す。

「さっきね、きれいなとこあった」
「そうか」
「天気いい日、行こ…?」

 俺がいつも通りなことに嬉しそうな彼女から言われて。

 ほんの少し、黙る。

 外に出たのなら。

 また彼女は傷つくんだろうか。

 知らない誰かに、こんないらない傷ばかり付けられるんだろうか。

 それは、許さない。

「…りあすー…?」

 何も言わない俺を不思議に思ったクリスティアがのぞき込んでくる。

 ほんの少し顔にも傷がついたクリスティア。

 それを見て思い浮かぶのは、最期の日のぼろぼろの姿。

 傷つけられてたまるか。

 大事な大事な、愛しいクリスティア。

 傷つけられたくないなら、いっそ。

 外に出さなければいい。

 そっと、彼女の頬に手を添えて。

「…?」
「気が向いたら、な」

 どちらともとれない言葉を、彼女の耳に落とした。
 それを「気が向けば行く」と捉えた恋人は、口角を上げて頷く。

 従順な彼女に微笑んで。

 早く閉じこめてしまおうと、帰路を心なしか早く歩いていった。

 そこから一時期は、ほんの少し心が穏やかだった。

「りーあーす」
「うん?」
「あそぼっ?」
「あぁ」

 飛びついて来た彼女を微笑んで受け止め、額を合わせて笑い合う。昔のように戻ったそれを噛みしめるように抱きしめた。

 けれど昔とは違うことが、ひとつだけ。

「今日、外はー…?」
「……」

 天気いいよと、あどけない少女はこてんと首を傾げる。そんな彼女に、愛しさを伝えるようにすりよって。

「家にいたい」
「今日も?」
「今日も」

 キスをするように彼女の頬へ自分の頬をすりあわせ、頷いた。ほんの少しだけ残念そうな雰囲気に心がちくっとしたのは、一瞬だけ。

 すぐさま口から出たのは、悪い言葉。

「俺はお前とこうして、家で愛し合う方が好きだ」

 恋人らしいことはできぬとも。
 抱きしめあって、笑って。ゆったりと時間を過ごせるだけで。

「こうしてるだけで幸せだ」

 だから家にいよう。

 言い聞かせるように言ってしまえば。

 愛情を伝えられない彼女は、ゆっくり堕ちていく。

「ほんと?」
「あぁ」

 緩く身を離して聞いてきた彼女に頷いてやる。

 そうすれば彼女は、俺に愛情を伝えられていると思って顔が綻び、また抱きついてくる。

「じゃあ家にいる…」
「ん」

 まだ子供な俺は、それが大人な彼女の気遣いであるとも知らないまま。

 束の間の平穏を離さないように、恋人を強く強く抱きしめた。

 そうして家から出さなくなって、疎ましく感じていた行動も危ないこともやめさせて。
 優越感が、傷つくのではないかという不安や心配と、窮屈にさせているクリスティアへの罪悪感へと変わっていってしばらく経ったとき。

 狂ったようになんでも「ダメだ」と言いつけて、過保護も加速して、いっぱいいっぱいで常に緊張していた糸が。

 たった一度で、ぷつりと切れた。

 最期の日。

 目の前には、クリスティア。

「…り、ぁす」

 彼女の胸中は、ぽっかりと穴が空いていた。

 一番最初に、彼女を失ったときと同じように。

 無意識に、手を伸ばした。

「クリスティア」

 名前を呼べば、彼女も手を伸ばしてこちらに歩いてこようとする。

「…、…」

 けれどその体は、数歩歩いて人形のように崩れ落ちた。

 手を伸ばしたまま、血の海を作って倒れた愛しい愛しい恋人。

 まるで再現されたかのようなそれは、ぎりぎりだった精神を引きずりおろすには十分だった。

 なんで。

 なんで守れない。

 あんなに閉じこめても、あんなに彼女から奪っても、結局これか。

 なんで、なんで。

 ただただ彼女に笑っていて欲しいだけなのに。

 幸せな未来を歩いて欲しいだけなのに。

 なんでこんな簡単に奪っていくんだ。

 たったひとつだけの、大切なモノ。

 彼女のペースに合わせて、いつだって丁寧に扱ってきたモノ。

 壊されないように、傷つかないように守りたかったモノ。

 それが今目の前で壊されて、傷つけられた。

 誰かも知らない奴にまた痛みを植え付けられた。

 俺以外がクリスティアの中に残ってる。

 たとえ生まれ変わるとしても。

 その記憶が、感覚が。残っているなんて耐えられない。

 クリスティアは、俺のものなのだから。

 俺以外の感覚も、時間も、何も。

「……いらない」

 いつものように体を貫かれながら傾く視界の中で。

 だんだんと思考がおかしな方向にいっていることもわかっていながら。

 どす黒いものが心を支配することを、許した。

 守りたいのに、守れない。

 触れたいのに、触れられない。

 それなのに他の奴らは遠慮なく彼女に傷を付けてくる。

 彼女に痛みを刻んでいく。

 俺だって、彼女に自分を刻みたいのに。

 自分以外何もいらないと言うくらい。

 俺しか見えないくらい。深く、深く。

 けれど自分を刻む方法は今はない。

 でも彼女に自分を刻みたい。

 あんな痛みなんて、忘れるくらい──。

 何かに心が支配されてからは、ずっとそんな思いで頭が満たされていた。

 消えない何かを刻みたい。
 すべてにおいて自分が一番になるような、何か──。

 そうして探し続けて、見つけたのは。

「クリスティア」
「?」

 たった一つ、その体に自分を刻みつけられる愛情(もの)。

 閉じこめた家の中、俺の声にこちらを向いたクリスティアに微笑んで。

 そっと、二度も打ち抜かれた彼女の胸中に触れた。

「──なぁ、」

 忌々しい記憶を消すために。

「ここが欲しい」

 そう、言えば。

 クリスティアは当然不思議そうな顔をした。それにまた微笑んでやりながら、今度は頬に手を添えて、いつものように額を合わせてやる。

「クリスティアが欲しいんだ」
「? うん…」
「心も、体も」

 ぜんぶ。

 驚きと照れで目を見開いた恋人にさらに口角があがっていくのを感じながら。

「いきなり恋人らしいことをしようなんて言わない」

 きちんと、今まで守ってきたペースを守ることを約束する。

「そっちは徐々にでいい」

 ──ただ、

「その代わりに」

 一個ずつ。

「クリスティアの体が欲しい」

 ぱちぱちと瞬かせたその目も。

 こてんと首を傾げたときに揺れる髪も。

 そっと俺の裾を持つ手も、指も。

 生きていると主張する心臓も、全部。

「他の奴に傷つけられるのがたまらなく嫌なんだ」

 けれど。

「仮に傷つけられても、自分のものという証が見えれば、多少安心する」
「あんしん…」
「あぁ。それに、証をつけさせてくれれば」

 俺はお前に愛されていると、よくわかる。

 そう、悪い言葉を言えば。

「──!」

 きらきらと目を輝かせた愛しい恋人。優越感と罪悪感が、心を満たしていく。

 ただ今回だけは、その罪悪感に負けぬように、ふたをして。

 緩く体を離して、もう一度。いとおしさが伝わるように、胸中に触れた。

「だからまずはここに、俺の証を刻んでも?」

 微笑んで、問う。

 返ってきたのは、

「うん…!」

 当然ながら、肯定。それに口角を上げて。

「なら、始めるか」
「んっ」

 何も知らない彼女をゆっくりと押し倒して。

 深く深く、逃れられないようにと。

 自分の証を、その胸中へと刻み込んだ。

「リアス様ー…」
「うん?」
「あーそーぼ」
「あぁ」

 ぽすんと膝の上に乗ってきた恋人の腰を支えてやる。
 首に回ってきた腕に引き寄せられるように体を傾けて、額を合わせた。

「♪」
「何して」
「決まってなーい…」

 ご機嫌に言うクリスティアに笑って、視線はほんの少し下へ。

 肩が露出した服からちらりと見えたのは、控えめな胸とその間にある一番最初に刻んだ呪術。

 それを見る度に、優越感が心を満たして口角があがる。

「? なぁに…」
「なんでも」
「そーお?」
「そう」

 納得した彼女を抱きしめて、首裏へと手を添えた。そっとそこを見れば、紅い印がもう一つ。一度いとおしさを伝えるように頬にすり寄ってから、すぐに体を緩く離す。

 何して遊ぶかクリスティアが悩んでいる間に、目はワンピースから出ている足へ。

 白く光るようなクロスタスキのものがかかっている細い両足。触れた両腕には、服に隠れているがこちらにも。

 すべて自分が刻んできたもの。

 無意識に、彼女と繋がる自分の腹部に手を当てた。

「? 呪術、いたむ…?」
「いや?」

 気づいたクリスティアに首を横に振って。

 もう一度抱きしめて、冷えた体を堪能しながら。

「お前と繋がっているのが嬉しいだけだ」

 そう、こぼせば。

「♪」

 長年の歳月をかけて狂わせた少女は、嬉しそうにぱたぱたと足を揺らす。それに微笑んで。

 今度はどこに刻んでやろうかと。

 第一候補の背中に、そっと指を這わせる。

 もっと自分のものになればいい。
 早く体の中まで堕ちてくればいい。

 こんな思いの、どこが純愛だろうか。

 俺達を見て以前言ってきた奴には頭の中でそう返し。

 だんだんと自分のモノへとなっている少女を、さらに強く抱きしめた。

『狂おしいほどに愛している君へ。共にもっと堕ちていこう』/リアス


 着替えるために上を脱げば、左胸の裏にあたたかい感触。

「……何?」
「いいえ」

 いいえ、なんて言いながらも妹はそこを触る。

「寒いんだけど」
「えぇ」
「着替えさせてくんない?」
「着替えなさいな」
「お前が触ってるから着替えらんないんですけど」

 悲しそうに触るから。

 上に上がって、下に下がって。心臓部分にあるであろうその傷口を静かに辿ること、数回。

「カリナ」
「……」

 そろそろ、と促すように名前を呼べば、その指が止まる。ぴたりとちょうど心臓を打ち抜くように添えられた指のまま。

「痛かった?」

 そう、聞かれた。

 それにはすぐに首を振る。

「別に」

 痛いと言わないのは相変わらず。

 でも本当に、この時期に刻んでいた傷だけは思い返しても痛くなくて。

「痛くなかったよ」

 妹の指から逃れて、それを隠すように。ワイシャツを羽織った。

 遠い遠い昔の話。
 少しずつ争いが収まってきた時代の話。

 たった一度だけ、愛する妹を殺しかけたことがあった。

 何度繰り返したかなんてわかんない、いつもおんなじ結末。
 最後の年になれば必ず体調を崩す妹。

 何をしても救えなかった。

 どんなに薬を作っても、どんなに民間療法を試しても、何一つ効かない。

 その最期が訪れるのが十年に一度っていう長いのか短いのかわからない歳月でも、何十回、何百回続けば心もボロボロになっていく。

 それはもちろん、俺だけじゃない。

「もういらないわよっ!!!」

 病気と闘ってるカリナが一番、心がボロボロだったと思う。

 声を荒げた妹は差し出した薬をついにはねのけた。

 手から落ちていった薬の瓶は下で割れて。
 ほんの少し薬草っぽい匂いが部屋に漂う。

「カリナ」
「いらないっ!!」
「飲んでみないと」
「効かなかったじゃない!!」

 何を飲んでも、何をしても。

 頭を抱えて嫌がるカリナに、心が痛い。

 ふつうのヒトにしてみたらたったの約三ヶ月。

 けれど本人にしたら地獄のような三ヶ月。

 体はどんどん重くなって、動かなくなって、息も浅くなって。
 けれど薬は飲めと言われて、こんなことをやってみよう、あんなことを試してみよう。

 まるで実験台のような気分だったのかもしれない。

 ここ数回の人生で、カリナは声を荒げることが多くなった。

 それに心はもちろん痛い。

 けれど、俺もいっぱいいっぱいだったんだろう。

 最初はごめんとしか出なかったのに、途中からは不満が溜まっていっていたのがわかってた。

「少しでも良くなるかもしれないだろ」
「そう言って何も変わらなかったわよ!!」
「カリナ」
「もう出て行ってっ!!」
「っ」

 投げられた枕が顔にぼすっと当たる。床に落ちていったそれを見届ける前に今度は本。

 次々と物が投げられ始めて、仕方なく落ちた瓶を拾って外へ出た。

「……」

 それなのにドアに向かって音を立てながら延々と物を投げられていることに、いらいらした。

 なんで。

 なんでそんなに嫌がるんだよ。

 何が不満なんだよ。

 俺だって救いたいからいろいろやっているのに。

 お前に元気になって欲しいからこうやって、すべての時間を費やして調べて、薬も作っているのに。

 手のひらにあるガラスなんて気にもせず強く拳を握りしめる。

 痛みなんて感じない。

 血が滴るのも気にしないまま、未だに物を投げつけられてるドアに寄りかかってしゃがむ。

「お前はどうやったら楽になって、何が満足なの」

 元気になることを望んでるんじゃないの?

 どうやったらお前の心は楽になるの。

「……お前じゃないんだから、俺はわかんないよ」

 頑張れば頑張るほど妹はおかしくなっていく。

 それを見るほどに、看続けていた俺もおかしくなっていった。

「……違う」

 何が足りない?

「これも違う」

 妹には、何が足りない。

「これもっ」

 違う。

 並べられた本に書いてあることすべてが違う。

「違う、全部違うっ」

 どれも試した、知ってるものばっかり。

 いらいらして、どうしようもできなくて。机に並んでる本を押しのけて床に落とした。

「何が原因なんだよ」

 調べても調べても、一致するものがない。

「何をすればいい」

 何をすれば。

 カリナは救われるの。

 なんであいつだけ苦しい。

 なんであいつばっかり痛い。

 どうやったら、

「どうやったらカリナは楽になれんの」

 わからない。

 俺はカリナじゃない。カリナの痛みがわからない。

 カリナの痛みがわかれば原因もわかる?

 そんなよくわからない考えが落ちてきたら、いつもなら「違う」って思うはずなのに。今だけは「そうだよ」って心が頷いて。

 それに支配されるように目が動いて映ったのは。

 いつも材料を切っていたナイフ。

 無意識に、手が伸びてた。

「泣き叫ぶくらい痛ければ、少しはわかるかな」

 右手でぐっと柄を握りしめて。

 ぼんやりとしたままそれを、左手に振り下ろした。

「っ」

 ずきずき痛みが走る。けどそこまで、カリナみたいになるほどじゃなかった。

 じゃあもっと?

 毎日毎日やっていけば、何か変わるかな。

 いつか救えるその日まで。

 そっと口角があがって。

 再び、その刃を左手に振り下ろした。

 けれどその痛みは、案外早くなくなっていった。

 毎日のように自分の体に刻む傷。痛いはずなのに、痛くない。

「……なんで」

 カリナみたいに泣き叫ぶような苦しさがない。

 息苦しさもない。呼吸も浅くならない。体が重くもならない。

 自分に傷を刻めば刻むほどカリナがわからなくなってく。

 わからないと薬も作れない。対処もできない。

 けれど刃を突き刺しても痛みがない。

「これじゃあ、」

 カリナが楽になれない。

 どうやったら楽になる?
 どうやったら笑ってくれる?

 ベッドに眠る妹は今日も泣き叫ぶだけ。

 明日の話も、今日の話もしてくれない。

 どうやったら。

 俺はカリナのことをちゃんとわかることができるの。

 流れる血の中で答えを探す。
 すべてを分け合って生まれたはずなのに、肝心なところだけ答えがない。

 日に日に焦りが増す。

 焦って、傷も増えて、作る薬も増えた。

 その分カリナが嫌がることも、泣き叫ぶことも増えた。

 毎日がわからなくなってく。

 答えが欲しい。
 カリナが楽になる答え。

 ただそれだけを考えて、地獄のような三ヶ月を何度も繰り返した。

 その答えが出たのは、変わらず傷も薬も増えていったとある最期の日だった。

 あれ以降何回繰り返したのかはわからない。
 ただカリナの笑顔が普段からも少なくなったのは確かで。

「……いらない」

 薬と治らない体に衰弱しきった妹は朝、ついに食事を拒んだ。

 ぼんやりとした目の妹の前に、もう一度食事を差し出す。

「……今日で最期だろ。食べれば」
「……最期だから、別に食べなくてもいいです」

 どうせすぐ死ぬんだから。

 言われた言葉に、ガツンと頭が殴られた気がした。また救えなかったと突きつけられた気がした。

 救いたかったのに。

 薬草も変えて、調合も変えて、何度も何度も変えて、頑張ってきたのに。

 けれど目の前が現実で。

 結果は出せず、妹は息も絶え絶えで脈も弱い。

 そうして妹を見送った後に何かしら起こって、俺もすぐに死ぬ。

 変わらない結末。

 どうしても救えない?
 どうしても、ここから彼女が昔みたいに歩き回ってみんなで遊ぶことはできない?

 何か。

 何か──。

「れぐな」
「!」

 ぐっと拳を握りしめたところで、カリナが弱々しく俺を呼んだ。彼女を見れば、まるで昔のように。今までのヒステリックが嘘のように微笑んでた。

 あぁ久しぶりに見たなと安堵して、俺も穏やかな声で応じる。

「なに」
「……」

 苦しいのか、妹は微笑んだままほんの少しだけ黙った。ゆっくりでいいよと言うように手を撫でながら促せば、俺の傷だらけの手に妹の手が重なって、口がそっと動く。

「、っと……」
「ん?」
「ゃ、っと……」

 やっと、らくになれるね。

 ぼんやりとした目だけど、はっきりと俺を捉えて小さく呟く。

 その言葉を聞いた瞬間、体はふっと軽くなったのに対して頭は混乱した。

 ──楽になれるって、何?

 カリナが答えを言った。
 ずっと探してた答えなのに、今の俺の頭は理解できてない。

「カリナ」
「……」
「ねぇ」

 けれど聞く間はなく。言い切った彼女の手がどんどん冷たくなっていくのがわかった。

「カリナ」
「……」

 応答はしない。
 脈にそっと指を置いたら、もうほとんど反応はしなかった。

 結局救えなかったと突きつけられながら、自分に迫り来る死の間際に考えるのは、カリナの今世の最期の言葉。

 らくになれるね。

 すごく穏やかな微笑みでそう言った。

 楽になれるってなんだろう。

 カリナが楽になれる?

 ずっと探し求めていた彼女が「楽になる」方法。

「カリナが、楽に……」

 ぐらっと揺れた地面に自分の死を感じて反射的に妹を強く抱きしめて、また考える。

 ”今から”楽になれるね。
 彼女が言ったのはたぶんそういうこと。

 そのときカリナに訪れていたのは?

「……」

 見つけた答えは、すとんと心に落ちてきた。

 きっと今までだったら絶対に選ばない方法だと思う。考えもいないし、冷静だったなら「それは違う」って即座に否定していた。

 けれどいっぱいいっぱいになってた自分は。

「……そういうこと」

 崩れてくる家の中で、久しぶりに口角を上げていた。

 次の人生では、カリナに治療を施さなかった。

「……薬とか、いいんです?」
「うん」

 それを話したときはやっぱりカリナは驚いていた。目をぱちぱちと瞬かせて、小さな親友よろしく首を傾げる。それには肩を竦めて笑った。

「ずっと薬漬けだったし、今までのも効果はなかったじゃん? たまには”何もしない”っていう治療もありかなと思って」

 どう? と聞けば。

 本人としてはやっぱりYES。薬漬けに参っていた妹はみるみる顔を綻ばせて。

「うんっ」

 嬉しそうに、頷いた。

 そうして、昔みたいにカリナの”やりたい”や”行きたい”をとことん叶えていった。

 元気なときは手を繋いであっちこっち連れ回して。

 体調を崩してからも、前はだめだって行った場所も、やりたいことも。全部叶えた。
 桜が見たいと言われればカリナをおぶって満開の桜の元へ行ったり。
 あれが食べてみたいと言われれば朝早くから並んで買いに行ったり。

「おいしい?」
「とても」

 ベッドの中にいてもここ最近の荒んだ状態とは違って、妹の笑顔は昔みたいに幸せそうで。

 笑う彼女に俺も釣られて顔が綻ぶ。

 人生の終わりが近づいているのに、初めて毎日が幸せだった。

 確かにカリナは日に日に体調を崩していく。よく気持ちで病気も治っていくこともあるって言うけれど、カリナの今の病気は発症自体が特殊だからそこは当てはまることはなく、きっちりと言うほど最期の日に向けて体は衰弱していった。

 けれど表情も、気持ちも。体に負けてないって言うように元気だった。

「……クリスが、遊びに、来てくれたの」
「そう」
「二人で、おかし、食べてね」
「おいしかった?」
「……とっても」

 親友との時間も前以上に楽しそうで。

「明日も、遊びに来て、くれるって」
「そう」

 昔みたいに今日や明日の話をしてくれる。

「毎日楽しい?」
「とっても……」

 その幸せそうな声に微笑んで、心が満たされながら終わりに向けた部屋の整理を続ける。

 前はカリナの気持ちがぜんぜんわかんなかったけど、最近はよくわかるようになった。

 毎日が楽しい。
 親友たちと過ごせるのが幸せで、昔に戻ったみたい。

 悔いがないくらい、幸せ。

 今だったなら──。

 そうよぎった、どちらかもわからない考えに口角を上げて。

 もう使わなくなるだろうと、たくさんの治療薬についてまとめた本をゴミ袋に捨てた。

 そうして迎えた最期の日。

「カリナ」

 やっとこの日が来たと、笑みをたたえて彼女を呼ぶ。もう衰弱しきってる妹はそっと目だけを俺に向けて、視線で「なぁに」と聞いてきた。

 ご機嫌な俺に安心してるのか、それともこの人生が幸せだったのか。カリナの口角は少し緩んでる気がする。

 それにまた微笑んで、カリナの頬に触れた。

「また、最期の日が来たね」

 ベッドで横たわってこくりと頷く妹に言葉をこぼしていく。

「俺さ、ずっとカリナが楽になる方法探してたんだ」
「……らく、に」
「そう」

 どんな薬を飲ませても治らない。
 どんな療法を試しても一向によくならない。

「どうやったらカリナの体は楽になるんだろうって」
「……」

 ずっと悩んでいたけど。

「やっと前回、答えを見つけたんだ」

 妹の目はまっすぐ俺を見る。

 まるでわかっているかのように微笑んでいる彼女に、告げた。

 痛いも辛いもなくなるたったひとつの方法。

「俺がカリナを楽にしてあげればいいんだって」

 カリナの人生を終わらせてあげれば、カリナはもうこんな辛い思いしなくて済む。
 昔願った、四人での「明日」は考えてなかった。

 カリナを楽にしたい。カリナの辛い姿を見たくない。

 ただそれだけの気持ちでいっぱいだった。

 けれどどこか冷静で。
 契約で最期の日まで死ねないのだから最期の日に決行しようと決めていた。カリナが死ぬ前に、俺が。

「でも大丈夫カリナ。寂しくないよ」

 そっと首裏に手を回して、彼女を抱き上げる。

「俺も一緒だから」

 独りにはしないというのも、自分の中の決めごと。

「一緒に生まれたのに、死ぬときが別々なんて悲しいじゃん?」

 カリナを抱きしめて、俺がベッドヘッドに寄りかかれるように座る。壁と自分の間は開けたまま。

 少しずつ少しずつ体温が低くなっている気がする妹と額を合わせて。

「一緒に死のうね」

 自分の心臓の裏に、ナイフを呼び出した。

 もっと冷静だったなら、この位置じゃ妹の心臓には刃なんて刺さらないとわかったんだろうけど。

 最期に顔が見れないなんて、悲しいから。

 向かい合わせで、そっと自分の心臓裏に刃をあてがう。

 怖くも何ともない。カリナが一緒なんだから。

 愛しい妹の目をまっすぐ見ながら、口角を上げて。

 迷い無く、ぐっと体を沈めていく。

 相変わらず痛みは感じない。

 ただただ刃が入ってくる感覚があるだけ。

 カリナはもしかしたら痛いかもしれない。最期に泣き叫ぶかもしれない。

 けれど痛いのはもう終わるから。

 大丈夫。

 誰に言い聞かせてるのかわからない中で。

 刃をさらに押し進めた、とき。

「──」

 そっと耳元で呟かれたのと、こつり、体の内部で何かにぶつかって痛みを感じたのは同時だった。

 妹の言葉よりも自分の体の中の衝撃に驚いて、意識はそっちに向く。

「な、に」

 ぐっと押し進めてもそれ以上刃が進まない。少しだけ勢いをつけて押しても痛みがあるだけで、こつんと音を立てて阻まれる。

 なんで。

 なんで進まない。

 なんで今になって痛みが出る?

「なんでっ」

 混乱するほどにジクジク痛みが増す。
 頭が切り替わって、それから逃れるように一気に突き刺すように動くけど。

「っ」

 痛みが増すだけで、やっぱりこつんと音を立ててそれ以上は阻まれた。

 なんで阻まれてんの。まさかセイレンが自殺防止に結界張ってた?

 でも生界に落ちてった子たちの干渉はできないはず。じゃあなんでこんな、壁があるみたいな。

 わけがわからないまま顔を上げたら。

「……!」

 悲しそうな妹と、目が合って。

 ふるりと首を横に振ったように見えたのと同時に、視界も、体も揺れた。

 それが地震だと知って、すぐさま妹を抱きしめる。

 そこでやっと、気づいた。

「……」

 揺れた衝撃でずるりと落ちていった、きっともう死を迎えているはずの彼女の右手が、俺の左胸に添えられていたこと。

 彼女が俺の死を阻んだこと。

「……カリナ」

 揺れる中で、ただただ妹を強く抱きしめる。

「死ぬのが、”楽になれること”って……言ったじゃん」

 やっと楽になれるねって。

「死にたかったんじゃ、ないの」

 もうやめたいんじゃないの。

 最期に言った、”痛いね”って、何。

 顔をしかめるほど痛かったのに、わからなくなってくほどに心臓裏の痛みは引いていった。

 カリナは痛かったの? まだ刃も刺さってなかったのに。
 じゃあ何が痛かったの。

 教えてよ。

「……俺別に、痛くなんてないよ?」

 言いながら、頬に何か流れていくのを感じる。それがなんなのかはわかんないけれど、痛くないのは本当。

 だって俺なんかが痛いって言ったらどうなるの。

 カリナはもっともっと痛いのに。

 俺が”痛い”って言っていいときは──。

 揺れる中で、冷たくなった愛する妹を離さないように折れるくらい強く抱きしめる。

「……まだ、足りない」

 聞こえていないことはわかっていながら、小さく呟いて。

 揺れる衝撃で、その短刀が心臓を突き抜けてきた感触を感じながら、その人生で眠りについた。

 最期のときが近づくと、体の感覚がおかしくなる。

「レグナ、血…」
「ん?」

 妹の治療薬を作る手伝いをしてくれてた小さな親友が、ひんやりする体で俺の手に触った。

 言われて見てみれば結構な量が手の甲からあふれてる。

「なおそ?」
「うん」

 頷きながらもとくに気にもとめず。先に薬の調合の方を終わらせるために試験管の方に向いた。

「れぐな」
「んー?」

 また彼女は大好きな紅に引き寄せられるように近づいてきて、俺のそこに触れる。

 あふれてるそこをなぞるようにして。

「いたい?」

 小さな声で、聞いてきた。

 それにはやっぱり、首を振る。

「痛くないよ」

 こんなの痛くない。
 たかだか手の甲切ったくらいだろ。

 痛くない。

 だって。

「痛みなんていらないだろ」

 試験管をまっすぐ見ながらこぼした言葉には、「そう」って。

 どこか悲しそうな声が、返ってきた。

『君の痛みを知ることができるまで、”痛み”なんて感覚は俺にはいらない』/レグナ


 ”まるで鏡合わせみたいだね”。

 大好きな兄は昔そう言った。

 見つめ合えば同じ色の瞳が合う私たち。性別は確かに違うけれど、顔を合わせればまるで鏡に映る自分のようだった。

 私が笑えばあなたも笑う。
 あなたが笑えば私も笑える。

 ねぇ、それなら──。

「……」

 目を開ければ変わらない景色。景色なんて言うにも乏しい同じ光景。
 木の板がきれいに並んでいる天井。

 毎日起きている間のほとんどは、それしか見えない。

 体は重くて、息も苦しくて。だんだん動かなくなっていく体に恐怖を感じながら生きる九十日間。

 身体的にも精神的にも、地獄だった。

 たったの三ヶ月。
 生界にいるうちの三ヶ月間の地獄。

 短いはずなのに、楽しく過ごしていた七年九ヶ月よりも長く感じる。

 最初は治そうとただただ必死だった。

 レグナが作ってくれた薬を飲んで、試そうと言ってくれた民間療法も頑張って。

 クリスティアやリアスと四人でまた楽しく話したり遊んだりするために、死にものぐるいで病気と闘っていた。

 けれど変わらない体に、運命に。心がすり切れていってしまうのも確かで。

「カリナ、薬」
「……」
「少し調合変えてみたんだ。前より飲みやすいかも」

 差し出された緑色の飲み薬を見ながら、ぼんやり思ってしまう。

 また、効かないものを飲むの。

 ぱっと流れていった言葉にすぐに我に返って、心の中で首を横に振った。

 そんなこと思っちゃだめじゃない。せっかくレグナが頑張って作ってくれたのに。

 自分の時間を費やして、私なんかのために。

 そう、だから効かないなんてことはない。

 自分に言い聞かせて差し出された薬を手にとって。

「ありがとう、ございます……」

 少しずつ笑うのが辛くなっている体でなんとか笑って、苦い薬を飲み込んだ。飲みきってもまだ苦みは残るけれど、大丈夫。

 これで治る。
 これでちゃんと終わる。

 毎回毎回心に言い聞かせていく。

 言い聞かせていく度に。

 うそつき。

 自分の心の中で、もう一人の私が言った気がした。

「カリナ」
「……」

 差し出された薬はきちんと飲んでいった。
 変わらずレグナが探してきてくれた療法も試して、動けるときはまた歩けるようにリハビリのようなものをして、未だ苦い薬を飲んで。

 八年の内の九十日間。
 毎日毎日、何年も何十年も繰り返し繰り返しその生活を続けていって。

 差し出される薬に、治療法に、段々と嫌気がさしていった。

 嫌な言葉が聞こえる度に心の中で首を振っていたはずなのに、今では受け入れてその薬を睨みつける。兄の声に耳を塞ぎたくなる。

「カリナ、体あっためるといいって」

 感覚だって少しずつわからなくなってきてるのに、やれって?

「この薬、この症状に効くかもしれないんだ」

 また効かないかもしれないじゃない。

「今日はこの薬試してみよう?」

 試してみようって、なによ。

 私。

 私、実験台なんかじゃないわ。

 そう思ったら、目の前の薬を弾き返していた。

「いらないっ!!」
「カリナ」
「もういらないわよ!!」
「飲んでみないと」
「効かないじゃないっ!!」

 何もかも。
 なんだって試したじゃない。

 あなたの言うこと全部。

 それでもこの何十年、何百年。

「ずっとずっと治らなかったじゃない!!」

 思い切り枕を投げつける。
 鏡合わせのような瞳が出てくる前にほかのものも投げつけてレグナを部屋から追い出した。

 それでも何度も何度もものを扉に投げつける。
 入ってこないように。もう嫌だと子供のように。

 こんなことがしたいわけじゃない。当たりたいわけじゃない。

 でもね、もう薬なんて飲みたくないの。わかってよ。
 治らないのに、こんな実験台みたいなことこれからも続けていくの? そんなの嫌。

 どうしてももう嫌で嫌でたまらなくて。

 レグナの足音が遠ざかっていくまで、何度も物をドアに叩きつけた。

「……カリナ」
「……」

 それでも変わらずにレグナは薬と療法の話を持ってきた。

 こんなのがあるよ、こういうのはどう。

 毎日毎日。

 レグナが来る度に背中を向けて、耳を塞ぐ。

 聞きたくない。
 飲みたくない。

 もうこんな生活嫌。

 早く早く時間が過ぎて、夜になればいい。
 夜になったら一人で静かに眠れるから。

 どうか、早く。

 強く強く、願う。

 頑張ってくれているのに。こんなこと思っちゃいけないのに。
 どうしても兄が煩わしく思ってしまって。

「……カリナ?」
「……」

 兄がやってくれば、すぐに布団をかぶるようになった。
 見たくないと言うように、力が出づらくなっている体にむちをうって必死に抵抗をして。

 いつからか鏡のようにそっくりな兄の姿を見ることがなくなっていた。

「……置いとくよ」

 それに心が痛まないわけではないけれど。
 兄も察しているのか、無理矢理布団をはがすことはしなくて。軽く声を掛けてから反応がなければことりと何かを置いて、すぐに部屋を出て行った。

「……」

 足音が遠くなっていったのを確認してから布団から顔を出せば、目の前のテーブルにぼんやり見えるのはパンと薬の入った瓶。
 昔よりも透明になって苦さがなくなっているように見えるけれど、やっぱり飲みたくはない。

 どうせ効かないじゃない。

 兄がどのくらい寝ないで調合をしているかも知っているはずなのに。
 その頑張りだって無駄にしてしまうくらい回復に向かわない私の心の中は嫌な声ばかり。

 そんなネガティブな心に支配されていってか。

 決まった死に向けて少しずつ体調が悪くなっていくはずが、妙に不調が加速していった。

「……?」

 最初の異変は、目。

 朝起きる度に、目の調子が悪くなってる。

「カリナ?」

 その次は、耳。

 兄の声が日に日に遠くなっていった。

 呼吸もいつも以上に苦しい。

 こんなこと前まであったかしら。記憶の中を探ってみるけれど特にない。

 毎回病状は変わったりするけれど、こんな風なのは初めて。

 聞きたくない、薬なんて飲みたくないって思いが通じたのかしら。体が治って欲しいというのは叶えてくれないくせに。

 ただ、見えないのも聞こえづらいのも。なにもかもが煩わしかったから心地よくて。兄の声もあまり気にならないし薬を見ることもないし、もう隠れることなんてせず。ほんの少しだけ心穏やかにぼうっと見えづらい天井を見上げるようになった。

 そんな私は端から見るとどうだったのかわからないけれど。

「……今日、天気良いよ」

 兄は少しずつ、薬以外の話をするようになった。

 今日はこんな日だよ、気温は暖かいよ。
 こんなことがあってね。

 まるで昔自分がしていたように、今日の話や明日のことを話すようになった。

 今日は薬の材料取りに行ってね。

 そういえばこういう花が咲いてたんだけど、知ってる?

 きれいな湖があったよ。今度見に行こう。

 今まで話までもが薬漬けだった分、兄がし始めた話は新鮮で。遠く聞こえる声に耳を傾けて。

 小さくなった声で「そう」と返しながら少しだけ自分の顔は微笑んでいた。

 けれどそれは、日に日に疎ましくなっていった。

 体は毎日重くなって呼吸は辛い。
 目もどんどん見えなくなるし、音も聞こえなくなってくる。

 最初は心地よかったはずなのに、日に日に恐怖が増していった。

 大好きな兄や親友たちの顔もぼんやりとしてきて。

「カリナ」

 声も耳元で喋ってもらって、ようやく聞こえるくらい。

 なにもかもが見えなくなってくる。

 なにもかもが聞こえなくなってくる。

 私が望んだのはこんな怖い世界じゃない。

 もっと、明るい、みんなと一緒の世界だったはずなのに。

 どうしてこうなったの。
 どうして私は一人、こんなところにいるの。

 理由を探してゆったりと首を動かせば、もうほとんど見えない目に映るのは。

 きっと、自分。

 聞こえなくなってきてる耳にちゃんと届くように耳元にいて。

 そうして言うの。

「今日は桜草が咲いてたよ」

 ──あぁ。

 あなたがすべて盗っていったの。

 私のすべて。

 目も耳も全部全部。

 昔何かで読んだことがある気がする。鏡の中の自分がすべてを盗っていくお話。

 そうして本体は力を盗られて、最終的には入れ替わる。

「それでね──」

 あなたも。

「すごくきれいだったよ」

 あなたもそうやって、私と入れ替わるの?

 あなただけ、思い出を刻んでいくの?

 だめよそんなの。

 そう思ったら、重い手が勝手に伸びていった。

「カリナ?」

 ぐっと胸ぐらをつかんで、息をめいっぱい吸い込んで。

 願う。

「返して」

 私の体を返して。

 息をのんだような音が聞こえた気がしたけれど、口が止まらなかった。

「返してよ、私の体っ……あなたがどんどん盗っていってるんでしょう……?」

 私の体が動かないのも、目が見えなくなっていくのも、耳が聞こえなくなっていっているのも。全部。

 あなたが盗っていったんでしょう。

「ねぇ」

 もう奪っていかないで。

「桜草が、きれいだというのなら……その目をちょうだい」

 私だって見たいわ。

「あなたの耳をちょうだい」

 大事な親友たちの、大好きな兄の声をちゃんと聞こえる耳を。

 花の匂いがたくさん吸い込めるような肺を。

 みんなで歩いていけるような体をちょうだい。

 ねぇどうして。

「どうして私だけ一人、歩けないの?」

 どうしてみんなと同じようにいかないの。

 どうしてあなただけ、鏡の中を抜け出して勝手に歩いていくの。

 鏡合わせだったじゃない。

「鏡合わせは一緒じゃないとだめじゃない」

 あなたが歩けるなら私も歩けなきゃ。

 あなたが聞こえるなら私も聞こえなきゃ。

 私が見えないのなら。

「あなただって見えちゃだめよ」

 見上げた先にいる同じ顔のその子の顔は、もうはっきりとは見えない。

 どんな顔してるのかしら。
 今の私みたいに笑ってる?

 それとも──。

「……カリナ」

 遠く遠くで聞こえた声は、どことなく悲しげな気がした。

 そっと目元に触れた暖かい何かは、震えているよう。

 じっと見つめていたら、目の前のヒトがそっと笑ったように見えて。

「カリナが欲しいなら、全部あげるよ」

 遠く、小さな声でそんなことを言った。

 耳も、肺も、腕も足も、目も、全部。

 それが嬉しいはずなのに。

 自分の顔が笑っているはずなのに。

 目元からは、妙に暖かい何かがあふれているのがわかる。

「……ぜんぶ?」
「全部」
「そう……」

 じゃあ、今すぐにね。
 そう言おうと思ったのに、妙に言葉が出てこなくて。

 どうしてもつっかえてしまって、諦めて代わりの言葉をこぼす。

「死んだら、ちょうだい」

 この人生が終わったら、あなたが見てきた世界を私に見せて。

「桜、草が、きれいだったんでしょう?」
「……そうだよ」
「花の匂いも、たくさん嗅いんでしょ?」
「うん」
「クリス、やリアスと……」

 レグナの声。

「たくさん、聞いた?」
「……聞いたよ」

 じゃあそれを。

「終わったら、ちゃんと、見せてね?」

 何故か震える声でこぼしていけば。

 また目の前のヒトが笑った気がした。

「いいよ」

 全部あげるね。
 遠くで聞こえた声と一緒に、あったかいものに抱きしめられる。

 約束だよって言えば、こくりと頷いた。

 それに顔がほころんでいくのを感じながら、心の中の自分が願う。

 もう見えなくなった鏡よ、鏡。

 たくさんの物が見たいの。

 たくさんの思い出が見たいの。

 クリスやリアスの声が、大好きな兄の声が聞きたいの。

 また「鏡合わせだね」って、笑った顔が見たいの。

 そうしたら私もまた、笑えるから。

 早く帰ってきてね。

 帰ってきたら、そのときは。

 そっと微笑んで。
 あたたかな温もりを抱きしめた。

 新たな人生が始まってすぐ。

 預けられた家に行けば、一緒に住むはずだった兄はもういない。

 義母に聞けば知らないの一点張り。

 義父に聞いても知らないの一点張り。

 誰に聞いても鏡の行方は誰も知らない。

「……また一人で歩いて行ったの」

 小さくこぼして、こつりこつり。廊下を歩いていく。自分の部屋へと行く途中でほかの部屋も見るけれど、やっぱり。

 鏡はいない。

「……だめじゃない」

 だめじゃない。
 一人で歩いて行ったら。

「どこにいるのかしら」

 見つけてあげなきゃ。

 一人じゃ笑えないでしょう?

 私が笑わなきゃあなたは笑えない。

 私もあなたがいなきゃ笑えないの。

 鏡合わせだものね。

 合わさって、初めて笑えるようになるの。

 だから一緒じゃないとだめなのよ。

 一緒にいて、笑って。大好きな親友たちに囲まれて。

 そうして今度こそ。

「今度こそちゃんと笑いあおうね」

 幸せだって笑いあって人生を終えようね。

 そのためなら私。

 なんだってするわ。

 すっと見据えたのは今はいない鏡のヒト。

 大切な誰かが言ったはずの笑い方を忘れてしまったけれど、一瞬見えた気がしたあなたにぎこちなく微笑んで。

「待っていてね」

 こつりこつり。かかとをならしながら部屋へと急いだ。

『鏡に映るあなたへ。閉じこめた世界の中で、今度こそ一緒に笑おうね』/カリナ


 四人で「明日」を生きたいと願って始まった長い旅。最初は、今度こそ今度こそと立ち向かっていっていたけれど。変わらない運命に段々と心は折れていって。

 私は前よりも声を荒げることが多くなって、レグナは誰のためになるかもわからないまま薬を作って、リアスは愛しい恋人をさらに閉じこめるようになって。

 四人は二人へ、二人は独りへ。

 いつからか気持ちは自分一人に向けるようになって、四人で逢っても喧嘩することが多くなった。

「いらないって言ってるじゃない!!」
「いつまで子供みたいに駄々をこねるつもりだ」
「リアスになにがわかるのよっ!!」

 昔なら軽い言い合いだったものが本気の言い合いになっていく。

「これじゃないんだってば」
「だったら自分で取りに行け」
「その時間も惜しいんだってわかってるだろ」

 聞こえてくる声もぴりぴりとして、ベッドの中で耳を塞ぐ。

 もう、なにもかもが嫌だった。

 聞こえてくる怒声も、頑張ることを強要されるような言葉も。
 治ることに向けて頑張ることも。
 生きるのを頑張ることも。

 四人で生きようと頑張ることも。

 たくさんたくさん、頑張ってきたじゃない。

 私頑張ったんだよ。
 頑張って生きてきたよ。

 それなのに、まだ頑張らなきゃいけない?

 もっとたくさん頑張らなきゃいけないの?

 薬を出される度に、治さなきゃいけないという重圧がのしかかる。

 なのに体は変化はなくて。

 外に行きたいと思っても行けない。
 家にいる間聞こえるのは誰かの怒鳴り声。
 誰かが部屋に来れば私の怒鳴り声が響く。

 楽しいことなんてひとつもない。

 ただただ天井を見上げているか耳を塞いでいるだけの毎日。

 あれから何回繰り返してきたんだろう。あと何回繰り返すんだろう。

 ぼんやりとしながら何回も何十回も苦痛を味わい続けて、気はおかしくなって。
 いつからか四人で生きることなんてどうでもよくなって、死を待つようになった。

 昔みたいに「生きたい」なんて気持ちも起きない。

 ただ死にたい。
 早く、早く。

 もう乗り越えられなくたっていい。早く終わってしまいたい。

 こんな嫌な世界なら、私はいらない。

 いつの間にかその思いは楽しいはずの七年九ヶ月にも出てくるようになって。

「カリナー…?」
「……」

 大好きな親友ですら、疎ましく感じるようになった。

 限られた空間の中。彼女が行ける範囲の目の前の庭。行こうと手を引くのを拒む。

 こてんと首を傾げるのも前だったらかわいいと感じていたのに、今はむかむかとしてくる。

「…あそぼ?」

 変わらずにそう言ってくる親友の手を、強く振り払った。

「ねぇ」

 この子は悪くないのに、勝手に口が動く。

「いつまで子供のままでいるの」

 大きな目がさらに大きく開いていくのがわかったけど、気にしなかった。

「あなただってもう気づいてるでしょう!? 意味ないの遊んだって!」
「…思い出、作らない?」

 なおも小さな子供みたいに言う彼女に、腹が立って。

「作らないわよ」

 するり、彼女の手から逃げていく。

「私、最期になったら動けないの」
「うん…だから、今のうちに思い出…」
「作らないって言ってるでしょ!!」

 その記憶がいつかうらやましくてうらやましくてたまらなくなるの。

「あのときこんなのが楽しかったねなんて、そんなことで笑えるほど私たちもう子供じゃないの!!」

 あなたにはわからないでしょう?

「いつまでも子供のままのあなたになんてわからない」

 自分が最低なことを言っていると気づきながら、負の感情に支配された心では言葉が止まらない。

「体が動かなくなっていく感覚も、呼吸が辛いのも。望んで外に出られないこともなにもかも。あなたにはわからないじゃない」

 わからないから、そういうことを言うんでしょう。

 まっすぐ、小さな子供を見据える。

 表情がわからない彼女は私を見つめたまま、なにも言うことはしない。

「……思い出を作るの、好きだったわ」
「…」
「でも今はもう苦痛なの」

 同じように歩けないことも、たくさんの意味のなくなるような思い出話も。

「だからクリス」

 お願いだから。

「思い出なんてもう作るの、やめましょう」

 その子がどんなことを思っていたかなんてわからない。もう気にもとめなかった。
 そうして、前だったら彼女が返事をするまで待っていたのに。

「……遊ぶなら一人で遊んできなさいな」

 私は返事を待たず、その子に背を向けた。

 つまらなくなった日々は、当たり前になった。

「だからこうしてって言ってんじゃん!!」
「文句を言うなら自分でやれ!」

 聞こえてくる怒鳴り声。

「……」

 体調なんて崩していないのに天井ばかり見上げて、死を待つばかりの自分。
 誰かがやってくればなにもかもが気にくわなくて声を荒げる。

 いつの日からか顔を合わせるだけで不機嫌にもなっていって。

 同じ家にいるのに、たった独りの子供以外、全員がばらばらだった。

 そのたった独りの子供は家の中をちょこちょこと動き回ることが多くなった。

「……どうしたの」

 ときおり頬に紅く腫れたようなものを作りながら。

 部屋の廊下を通り過ぎる彼女のそれが珍しすぎて声をかけてしまう。

 蒼い瞳はこちらを見たあと、なんて言おうというように目をうろうろさせる。そうして何度か右往左往したあと。

「ころんだ…」

 小さくそう言って、ぱたぱたと去っていった。

 その後ろ姿を見ながら、彼女の言葉を嘘だとわかっていた私はため息を吐く。

 転んでそこだけ紅く腫れるようなことなんてないじゃない。

 明らかに、はたかれたような痕。

「……どうせリアスでも怒らせたんでしょ」

 昔だったなら彼はそんなことしないし、もしあったなら駆け込んで思い切り私が殴っていたのに。今ではいつまでも変わらないからよと呆れるようになって。

「いい加減にしろよクリス! 忙しいって言ってるだろ!」

 兄から怒鳴られていることも。

「この部屋に入るなと言っただろう」

 大好きな恋人から怒られていることも。

「……バカな子」

 そんなことを思いながら、少しずつ少しずつ動かなくなっている体で変わらず天井を見上げ続けていた。

 毎日のように怒鳴り声が響く。

 毎日のように少女はぱたぱたと動き回る。

 そうしてまた怒鳴り声が響く。

 いつからか当たり前になったそんな世界で思うのは。

「……」

 今日も生きてるの。
 明日も生きてるの?

 いつまで生きてるの。

 みんなみんな、いつまで生きてるのかしら。もう終わってもいいんじゃない?

 こんな世界つまらないでしょう。

 そんなことばかり。そして段々とこんな思いも出てくる。

 次の運命の日、上に帰ったらセイレンに言ってみようかしら。

 もう、終わりにしたいと。

 みんなもそう思ってるよね、なんて。ばらばらのはずなのに思う。

 あぁでも。

 カレンダーを見れば、まだ一月の終わり。最期はまだまだ先。

「……早く」

 早く、終わりたいな。

 ぽつり、誰もいない部屋で独りこぼした。

 そんな小さくこぼした声が届いたのか。

「これでもう終わりにする?」

 目に光なんてなくなってしまったかのような兄が、珍しく全員集まった私の部屋で。

 ある日突然、そう言った。

「……もういいじゃん、いらいらするばっかり」

 けれど突然なのに誰も否定なんてしない。

「こんななら、もうやめにしようよ」

 部屋の中に響いた声に、誰も視線は合わせないまま。

「……そうね」

 私はそうこぼして、リアスも頷く。

 なにも変わらない運命。
 私は罪悪感ばかりが募っていく。なのに呪いで一番謝りたいことを謝ることはできなくて、体調も回復せずさらに罪悪感が募る。
 ほかの人たちだって変わらない運命に疲弊していた。

 それを表すかのように怒鳴り声しかあがらなくなった家。
 ばらばらの四人。目すら合わせもしない。

 四人で歩いていくことも、生きていくことすらも。
 もうなにもかもどうでも良くなってしまって。

「これで、終わり…」

 部屋でぽつりつぶやかれた声なんて、気にもとめなかった。

 それからも怒鳴り声はやむことはなかった。ときには何かが割れる音。ときには何かを叩く音。

 最後と決まった割に、それは収まることはなくて。日々加速していく。

 誰もが狂いきって、疲弊して、自分以外どうでもよくなったつまらない世界。

 そんな世界の中でその子に気づかなかったのは、きっともう見向きもしなかったから。

 ただただ終われる。その安堵と、いつの日からか頷いたくせにどことなく寂しさが募っていき始めた二月の終わり。

 狂いきった世界にたった独りで立ち向かっていた少女が、やってきた。

 目が覚めて見えるのは変わらない天井。

 家が騒がしいのも相変わらず。

 ただ、

「……?」

 その騒がしさはいつもとは違う。ばたばたと何かが駆けて来るみたいだった。まだ二月だけれど、もしかして何かが変わって死ぬ日にでもなって誰かが殺しにきたのかしら。
 なんて荒んだ心では死ばかり。

 けれど、ぱたぱたと駆けてくる音に混じって声も聞こえてきて。何か違うとわかった。

「なんなんだいきなりっ」
「もう話終わったじゃん」

 レグナとリアスの声。聞く限りクリスティアが引っ張ってるのかしら。あの子力だけは強いものね。話ということはこっちに来る?

 どうせなにも変わらないと思うけれど。

 話には応じましょうかと動かしづらい体でこちらに向かってきているらしい足音に、首だけを傾けた。

 瞬間。

 バンッと勢いよく扉が開く。

 視線の先には、やっぱりクリスティア。片手で大きな何かを持って、もう片方で男子二人を引っ張るというなかなかなことをしている。

 昔ならちゃかしていたけれど。

「…っ、…」
「……どうしたの」

 あまりにもその子の顔が必死で、泣きそうで。

 思わずちゃかすことも言葉をかけないこともしないで、聞いた。

 少女のようなその子はぎゅっとその何かを抱きしめて、泣きそうな顔でこちらに歩いてくる。
 あまりにも必死そうだからか、ちゃんと聞かなきゃいけないと感じて。動かしづらい体を起こしてベッドサイドにもたれた。

 ぱたぱたと歩きだけは勇ましくやってきて、私の隣に立つ。じっと私を見つめる蒼い瞳にはもう涙が溜まっていた。
 なにも予想ができなくてレグナとリアスを見るけれど、同じくベッドに近づいてきた彼らもわからない様子。

 また蒼い瞳を見て、珍しく。

「なぁに?」

 努めてやさしくやさしく、聞けば。

「っ、こ、れ…」

 ぎゅっと抱きしめていたそれを、ベッドにどさっと置いた。

「? なに……?」
「紙、の束?」

 分厚い本よりもさらに分厚いそれは紙の束。思わずまたレグナたちと顔を合わせて首を傾げてから、紙の束に目を落とす。

 一番上はまっしろな紙。

 何故か、めくらなければならないと頭の中が言い出して。その頭の声が言うままに一枚めくる。

 描いて、あるのは、

「……花の、絵……?」

 色鉛筆か何か、淡い色で塗られたピンクの花。どこかの路上に咲いた一輪。
 わけがわからなくて、一枚めくる。

 ──あ。

「ここうち?」
「カリナの部屋じゃないか」

 自分でも気づいて周りを見てみれば。
 絵に描いてあるテーブルや花瓶の位置が一緒。

 これは風景画を見ろということなのかしら。未だにわからないけれど、続きが気になってまた一枚めくった。

「……?」

 そこは、変わらずまた私の部屋。なんとなく物の高さが変わっているような絵。

 もう一枚めくれば、同じ部屋だけど今度はドアが近くになった。

 また一枚。今度はドアが開かれて、この部屋から出たときにちょうど見える大きな木がある。

 また一枚。左へ向かったらしく、奥にはレグナの薬の調合室が見える。

 ぱらぱらとめくっていくと。

 まるで、歩いているかのようにその調合室へと近づいていって。

 誰かがドアを開けるような仕草の絵があって、次の一枚でドアが開かれる。

 そこには、

「俺じゃん」

 薬を調合しているようなレグナの後ろ姿。そうこんな風にやってるよねと、ふっと笑みがこぼれた。

 そうして絵の中の子はレグナに近づいていって、その肩を叩く。

 振り返った兄は、今ではほとんど見ることはないくらい優しく笑っていた。

 「なに?」と言いたげに。

 絵の中の子と何か会話をしたんでしょう。レグナは頷いて、一歩前を歩きながら一緒に部屋を出ていく。

 そうして向かった先は、リアスの書庫。

 また一歩一歩歩いているような絵があって、

「リアスだ」
「こんな風に笑うか?」

 穏やかな笑みでこちらを向いたリアス。いつの間にか自分の顔はほころんでいて、夢中でページをめくった。

 リアスとレグナをつれて、書庫の奥へ行けば。

「クリスがいるわ」

 眠っているようなクリスティアがいる。

 あぁ、この絵の主人公は私だったの。じゃあ優しく起こしてあげなきゃね、なんて、絵の中とリンクして心の中で彼女を起こす。私たちを捉えた彼女はとてもうれしそうな顔。
 そうしてゆっくりと起きたクリスティアもつれて、私たちは家を出た。

 目の前に広がっているのはこの家を出たときにある商店街。そこも一歩一歩進んで行くようで、四人で歩いていく。

 途中でクリスティアが寄り道して、リアスが止めて。レグナもいい生地があるよと笑って、たくさんの物を見ていた。

 ──あぁ、なんか。

 昔に帰ったみたい。

 ここからあと何枚、何十枚。ううん、何百枚あるんだろう。
 まだまだ続く道の途中で、隣に立っている親友に目を向けた。

 絵の中では笑っていたのに、隣に立つ彼女は涙を溜めて私たちを見ている。きっと今の私も同じかしら。

「……ねぇクリス」

 これ、なぁに?

 まるで歩いているかのような、これは。

 意識しないでも優しく言葉が出た。その声を聞いて。

 彼女の涙が、一つ。また一つこぼれ落ちていった。

「…っ、これ、なら…みんなで歩けると、思ったの」

 涙と同じくらいぽつりぽつり、こぼしていく。

「昔みたいに、みんなでいろんなものを見て」

 昔みたいに。

 目が合ったらみんなでおはようと笑いあって。
 どんなに遠くには行けなくても、手をつないでそこへ行って。

 そうやってできた、たくさんの思い出。

 目の前の少女は鼻をすすりながら、涙を流して。

「なくしたくない」

 たった独りで狂いきった世界に立ち向かっていた彼女が、初めて小さく見えた。

 改めて紙に目を落とす。ぽたりと何かがこぼれた気がしたけれど、かまわずページをめくった。

 しばらくこの家付近の景色が続いて、途中でぱっと切り替わる。まるでテレポートをしたようなそこには。

 満開の桜。

 出逢った頃のような桜の中で遊んで、今度は四人で行った大きな湖。

 いつの日か道に迷った森の中。そこにいたビーストも描いてある。
 ゆったりとできるきれいな川。
 初日の出を見ようと何故か山登りまでしたときのものも。
 この人生だけじゃない、今までの家も。

 たくさんたくさん、四人で行った場所が綴られている。

「……ねぇクリス、これ全部描いたの?」

 こくりと涙をこぼしながら頷いた小さな少女。

 どれだけ頑張ったんだろう。

 ぱらぱらとめくった中には、彼女には話だけでしか言わなかった場所もあった。きっとレグナに聞いたのかしら。

 怒鳴られながら、怒られながら。

 たった独りで、たくさんたくさん。

 どれだけ寂しかったんだろう。少女を見れば、裾で涙を拭いながらしゃくりあげていて。

 小さな声で、言った。

「さよならなんて言わないで」

 四人でまた、あそぼう。

 どんなことでも頑張るから。

 小さな小さな女の子の小さな声に。

 重かった体が、勝手に動いていた。

「……ごめんねクリス」

 いつからか冷たくなってしまった体温を抱きしめる。

「寂しかったよね」

 こくり、抱きしめ返されながら頷く。

「クリスだって、つらかったね」

 たくさん怒られて、誰もいなくなった世界で。たった独り、つらかったでしょう。頭を撫でてあげれば、少しずつ少しずつ声を上げて泣き始める小さな女の子。

 そっと周りを見れば、いつの日からか険悪だった雰囲気はなくなっていて。
 困ったようにはしながら、顔はほころんでいる。

 そうして三人、頷いて。

「もう大丈夫よクリス」

 みんな同じ、気持ちをあなたに。

「これからもずっと一緒にいるからね」

 こぼしたとたん、糸が切れたように腕の中の少女は声を上げて泣き出した。

 その声を聞きながら、さらに強く抱きしめる。

 なにもかもが狂ったおかしな世界。
 誰もが自分のことばかりになって、ばらばらになった四人。

 けれどそんな世界から救ってくれたのは。

「ありがとねクリスティア」

 いつだってたった独りでいろんなことに立ち向かっていた、小さな、小さな。誰よりも強くて誰よりも繊細なヒーローだった。

 カシャリ、音を鳴らしてシャッターを切る。

 映ったのは、病室のテーブルでお絵かきしている水色のかわいいかわいい天使。

「また撮っているのかお前」
「えぇ、後ほど差し上げますわ」
「欲しいなど言っていないが」
「え、欲しくないんです?」

 信じられないといった風に見れば、目の前の男は引いたように私を見た。失礼ですね。

 ぷくりと頬を膨らませて、いいですよーと溜まった写真を見る。

 スライドさせていけば水色の天使から始まって、目の前の男の読書写真になり、兄の料理の姿。
 風景だったり四人での写真だったり、たくさん。

「だいぶ溜まったね」

 横から見てきた兄に、頷く。

「また現像をお願いせねばなりませんね」
「それはかまわないんだがアルバムが足りなくなっている問題はどうするつもりだ」
「簡単なことでしょう。新しく買ってあげなさいな。クリスだって喜びますわ」
「わーい…」

 棒読みありがとうございます。

 いつか誰かが好きだと言った笑みで笑って、再び写真に目を落とす。

 またスライドしていけば、毎回毎回逢う度に撮っていた写真がたくさん出てくる。

「結構ことある毎に撮るよねカリナ」
「えぇ。撮り逃しはありませんわ」
「たまには撮り逃せ」
「嫌ですよ。この瞬間も大事な思い出ですから残していきますわ。ねぇクリス?」
「ねー…」

 うれしそうに頷いた彼女に、また笑って。

 カメラに切り替えて、ぱしゃり。もう一度シャッターを切った。

「でももう少しわたしの視線の合った写真増やしてもいいと思うの…」
「お任せくださいな」
「それ絶対隠しカメラで合わせてくやつだよね」
「この数百年で盗撮に磨きがかかったな」

 盗撮なんて失礼な。

「ちゃんとカメラを構えていますから盗撮じゃありません。れっきとした正当行為です」
「服に仕込んで写真を撮ることはれっきとした犯罪行為だよ」
「日本って難しいですね」
「残念だなカリナ、全国共通だ」
「まぁびっくり」

 おおげさに驚いたように言えば、みんなも笑う。

「できたー…」

 そんな中でも一人色鉛筆を走らせていた彼女は、ベッドに集まっている私たちの元へ楽しそうにやってきました。リアスの膝の上にちょこんと座って、その描いたものを差し出してくる。

 描かれているのは、彼女の家の庭に咲く桜草の花。

 大昔だったら疎ましく思っていたのに、今はすぐに顔がほころんだ。

「また上手になりましたねぇ」
「♪」

 笑えば彼女もうれしそうに笑う。その頭をなでてあげて。

「ねぇクリス、私歩きたいです」

 いつからか当たり前になった散歩を願う。

 そうすればクリスティアはお任せあれと胸を叩き、引き出しから大きな紙の束を持ってきて私の膝の上に置いた。

 昔よりも増えて、もう何冊目かはわからないそれを丁寧にめくっていく。

「今日はどこ行きたい…?」
「クリスが行きたいところに行きましょう」
「じゃあねー…」

 ぱらぱらとめくっていくと、病室から始まりどんどん景色が変わっていって。

「今日は海気分…」
「リアス水着のご用意を」
「この三月にばかじゃないのか」
「ビーチボールだけ持ってこうよ」

 笑って、海が広がるそこに目を落とした。

 変わらず私の視線で描かれるイラストは、みんなが優しく笑っている。それに頬を緩ませ目を上げて周りを見れば、そのイラストの中と同じように優しく笑っていた。

 みんなで笑いながらたくさんの物を見る。肺いっぱいに息を吸い込めば潮の香りがするような気がする。

 私の望んだ世界。

 それが見られるようになったのも、全部。

「……あなたのおかげね」
「? なぁにー」
「なぁんにも」

 不思議そうな顔の少女には笑って。

「……♪」

 たくさんの思い出がまた増えますように。

 大好きな彼女がたくさん笑顔になれますように。

 願いながらこっそり、この光景にシャッターを切った。

『今日もまたひとつ。アルバムのページが終わりを告げる』/カリナ

感想を送る

    僕らの思い出