―幸願病― 私は、あなたの幸せを願う

イヤホンを付けて、音楽を掛けて。
いろんな音を、シャットアウトしてみる。

世界の音、誰かの音。

――私の、頭の声の音を。

 

―1―

きっかけなんて、覚えてなかった。
気づいたら、私の頭の中には「それ」がいる。

思いたくない言葉。苦しむ私をあざ笑うかのように、「それ」はずっとずっと、付きまとう。

他人への、「し」の言葉。

あなたに大好きなものはありますか。
大好きな人はいますか。

私には、とてもとても大好きで大切なものがあって、愛する人たちがいます。

そんな、大切で愛する者たちに。

私の頭の中は、「し」を願う。

おかしいなんて誰よりもわかってる。大好きなものに、そんな言葉が浮かぶなんて。

人として当然の感情でもあるんでしょう。それもちゃんとわかってるよ。小さい頃なんかは深く意味なんて考えず、「あいつなんて」、って思ったりもしたし、なんならみんな当たり前のように口にしたと思う。

”しね”、なんて。

でもそれってやっぱり、ムカついてたり、その人が嫌だなって思う瞬間だからこそ出てくる言葉なんじゃないかって思う。

――きっと私たちとは。

死願病しがんびょう”と呼ばれる病を持つ私たちとは違って、その負の感情に伴って、合致した言葉が出るんだろう。

それを考えるたびに。
音楽の合間にも紡がれる頭の中の「しね」という言葉が聞こえるたびに。

私――願ノ幸ねがいのさちは、またその言葉に後悔と罪を心に刻んで、ため息をついた。

 

死願病というのは、その名の通り感情なんて関係なくただただ誰にでも「しね」と思ってしまう病らしい。
大人になってからの方がなりやすくて、環境とか人間関係とかで心が疲弊した人がなりやすいと聞いた。
その対処法は未だにわかってもない、と。

ただ、わかっているのは。

”死願病”になった人間は、今ではもう忌み嫌われるものだということ。

これが見つかった当初、三十年くらい前には未知の病としてニュースに取り上げられたそうだ。
頭の中でなんにでも「しね」と聞こえる恐怖感、おかしくなっていく大人たち。最初は誰もが恐怖をしたり、大丈夫と声をかけるような風潮になっていたけれど。

一周回って冷静になったのか。

人は、”死願病”そのものではなく”死願病”で苦しむ人に、恐怖や軽蔑の目を当て始めたそうだ。

――病気とは言え、あなたは私の「死」を願っているんでしょう?
――それが病気だとしても、思ったことは結局ひどい言葉じゃない。

”君はおかしいよ。”

――大好きな者にまで、誰彼構わず「死」を願うなんて。

”確かにそれは、病気だ。”

”でも治ったとしても。”

――病気だったとしても、願われたこっちはたまったもんじゃない。

 

だんだんと、だんだんと。
冷静に考えれば当たり前だろうなっていう声がたくさん出てきて。

騒がれたときから三十年。私が二十代の後半に入りかけた頃には。

”死願病”という病は、軽蔑の対象で。
たとえその病になったとしても、誰にも相談なんてできず。よほどじゃない限り病院にも行かないという人が増えたらしい。

それは、当然、私も。

 

大切な人がいる。
大好きな人がいる。
あこがれている人がいる。

でも私は、その人たちにも「し」を思う。

思いたくない。どうして思うんだろう。なんでこうなっちゃったんだろう。

もしも仮にそれがあなたに知られてしまったなら。

きっと、許されることなんてないんだろう。

それが、たまらなく怖い。
許されないことも、「し」を思うこと自体も。

「……!」

歩いている中ですりよって来た小さな命。
にゃあ、なんて鳴いて、私に「撫でて」なんて言ってるみたい。

それがかわいくて、思わず顔がほころんだ。そうして自然と、手が伸びていく。

けれど。

「……」

その小さな命に触れようとした瞬間に、悪魔の声が聞こえて。思わず手をひっこめた。

もしも。

もしも、私がこの手で触れてしまって。その瞬間にまた「しね」と思ってしまって。

この子が、本当に死んでしまったらどうしよう。

死願病の人が陥りやすい思考らしい。自分がそうなんじゃないかって思い始めた頃、図書館の隅に置かれていた、たった一つの死願病に関する文献を読んで知ったもの。

命あるものには必ず終わりが来る。

わかっているけれど。

私は。

「……ごめんね」

ただただそれが怖くて、怖くて。ひっこめた手を伸ばすことはないまま、小さく呟いて。
その場を足早に去って行った。

 

―2―

死願病は、仕事ややりたいことにも支障が出たりする。

「……」

パソコンとにらめっこをして、眉間にしわを寄せて。
マウスに指を添えて、カーソルは「インストール」というボタンに乗せたまま。

私はかれこれ一時間ほど、動けていない。

理由は当然、「しね」という言葉が頭に流れてくるから。

ただただ「しね」だけだったならまぁ、うん、まぁなんとか乗り切れたんだろう。あとはその願う対象が自分だったなら全然よかった。

この病気の厄介なところは。

「……また、大切な人の大切なもの」

いつだって対象が”自分以外”だということ。

大好きな人だっていうこともあれば、その人が大切にしているものだったり。対象はその時々で違うけれど。

一貫して、自分以外であることは決して変わらない。

「……大丈夫、大丈夫」

そのたびに後悔して、頭の中を一回切り替える。
楽しいことを考えよう? 私はあれだ、推しのあのキャラが好きだ。

好きだ、好きだ、好きだ。

その好きだの、まま。

「……押せっ」

カチリ、インストールボタンを押す。
そして一瞬安堵した瞬間に。

「っあ”ーーー」

すぐさま、聞こえた「しね」の言葉。
これはセーフか。いやでもわかんない。どうしよう。押し寄せてくるのは一気に不安。

思ってしまったかもしれない。
いや確実に思った。でもボタン押した直後だったから大丈夫? でも。

でも。

このインストールしたものを使い続けて、その子に負の念が行っちゃったらどうしよう。
挙句の果てに、本当に死んじゃったらどうしよう。

この死願病に侵されて、考えがほんとにおかしくなってるっていうのはよくわかってた。
けれどどうしても考えてしまうそんな不安。そうして、どんどん。

「……もうやだ」

何もかも、楽しくなくなってくる。

何かを作ることが怖い。新しく始めることが怖い。決定ボタンを押すことが怖い。

そのたびに、誰かの「し」が聞こえてくるから。

その恐怖や不安は、また不安を呼んで。

だんだんと自分が信じられなくて。
何をしても、「ほんとに大丈夫?」なんて。あざ笑うかのような声も聞こえるようになった。

癒しの時間といえば、何かに没頭する時間だった。
漫画を読んだり、夢中になれることをするのが、「し」から離れられてすごく心地よかった。

ただ、それを始めるまで、夢中になるまでは多少地獄でもある。
入り込んでしまえば早いのに、それまでは苦痛だ。

「……うるさい……」

何かをし始めるときは音楽聞きながらだと逆に不安になってしまう。正しいかがわからなくなってしまうから。
けれど頭の声は大きくなる。その繰り返し。

私は何が楽しかったんだっけ。本当にこの「し」から離れていいんだっけ。

離れたいのに、何故か離れられない。

それはこの病気に苦しんでるかわいそうな自分が可愛いから?

それとも。

「し」を願ったことを罪として、ずっと背負い続けなければと思っているから?

「どっちもなのかな」

忘れてはいけないと、思ってしまう。
だっていけないことを思っている。ましてや大好きなものたちに。たとえ病気だったとしても。

きっと、悪いことをしているんだということは、変わらない。

忘れてしまいたい、けれど、それは罪として一生背負っていかなければいけないと思う。

誰もがある感情でも、きっといけないことをしているのは確かだ。

 

それが自分を追いつめていることになっているなんて知らずに、だんだんと私の思考はただただ恐怖に支配されていて。

「願ノさん、この件まだかな?」
「……すみません」

怖くて「完了」のボタンが押せなくて、仕事には前以上に支障が出ていた。

「なんかできないことあったりする? わかんない?」
「あー……そういう、わけじゃ、ないんですけど……」
「最近体調よくなかったりするの? 相談とか乗るけど……」
「……えっと」

話しながらも、心配してくれてるその人に「し」が浮かぶ。

だめだと思っていても次の「ね」が頭に聞こえて。

「……すみません」

心配してくれているのにその言葉を思ってしまったことに、また罪悪感。悲しさと苦しさに涙だけはなんとか堪えて。

「ちょっと、小休憩してきます、ね」

貼り付けたような笑みを先輩に向けてから、私は一度、席を外した。

 

―3―

「……完全におかしい人みたい」

空を見上げて、顔は笑みをたたえる。
でも頭の中は、恐怖でいっぱい。

一周回っておかしくなったみたいだ。

「昔は何を思ってたんだっけ」

何をそんなに楽しくできていたんだっけ。
こんな、恐怖ばかりの世界はいつからだったっけ。

きっとこれが、その人たちのことみんなみんな大嫌いだったなら。

「そうだったら、楽なのになぁ」
「何が」
「ぅわっ!!」

目の前の青い空がいきなり人に変わって思わず声が上がる。
勢いのまま起き上がることだけはなんとか耐えて事故にはならなかったけども。

向こうも私の声にびっくりしたのか、空みたいに青い瞳が大きく開かれてた。

「そんなに驚くか」
「いや、うん……驚くでしょう……」

ごめん、なんて笑って。その人――空下くうが かなたは私の隣に座った。
入社したときから一緒の同期。今では部署は変わったけれど、時間が合えば飲みに行ったり、お昼休みとかに今みたいに話せるくらい仲が良かった人。

その人を見て、ぼんやりと思う。

――あぁ。

前だったら、隣に来てくれたことが嬉しくて。こぶし一個分くらい空いた先にいるこの人にドキドキしてたんだろうなぁ。

今もないわけじゃないけれど。

「……」

頭の中に聞こえてくる声に、罪悪感の方が勝つ。
すぐさま聞こえてくる「しね」の言葉に、心の中だけで頭を振り乱しながら、笑った。

「どしたの? 昼休みってわけじゃないじゃん」
「お前もだろ」
「今ちょうど小休憩もらってるんだよ」
「最近調子悪くてそれが祟ったってか?」

ぐっと刺さる言葉には、とりあえず笑ってみる。

「なんかね、たまーにね」

うまく笑えてますか。
鏡なんてないから、わからないけれど。どうか口角よ上がっていてと願いながら、あいまいにうなずいておいた。

「あるじゃん、調子悪い時くらい」
「……日に日に悪くなってるって聞いてるけど?」
「密告者は私の上司ですか」
「大正解」

ここに来るときに買ってきたらしいコーヒーを口に含んでから。

「あの人お前のこと大好きじゃん。心配してんぞ」
「……」
「なんか知らないかって、同期の俺にも聞いてきたけど」

何かあったの。

穏やかに聞かれた言葉には、ただただ笑って。

「……別にー」

嘘を、吐いてみる。
けれど鋭いそいつは、すぐにわかったらしくて。

「俺に嘘つくんだ?」

なんて言うから。
今度は思わず、ほんとに笑ってしまった。

「あんたは私のなんなんだよ」
「同期で親友」
「さいですか」

心の中では、ついでに「私の好きな人」と付け加えさせてもらって。

ほんのちょっとだけ明るくなった心で、上を見上げる。さっきより空は澄んで見える気がした。

「……なんでもないよ」

そうしてまた、嘘を吐く。

「……話なら聞くけど?」
「なんもないってー」

けれど笑っても、あなたは真剣な目で私を見つめた。

その真剣な瞳に。

ほんの少しだけ、喉元が熱くなる。

少しずつこの病気が進行してから、かなただけじゃなくて、いろんな人が声をかけてくれた。
調子悪いときは、”どうしたの”って。
それが続いたら、”悩んでるの”って。

”話聞くよ”。

たくさんたくさん、声をかけてくれた。

――どうしたの?
そう聞かれたら私はこう返したい。

”苦しいんだ”って。

――悩んでるの?
そう聞かれたら、”悩んでるよ”ってうなずきたい。

――話聞くよ。

その言葉に、甘えたい。

でもね。

話を聞いたら。

 

あなたは私をどう思いますか。

そんなこと思ってたのって、軽蔑しませんか。
変わらずに関係を保ってくれますか。

たとえこれが病気だったとしても、許されますか。

私は優しくしてくれたあなたたちを、これからも変わらずに好きでいてもいいですか。

 

その自問自答が止まらない。

「幸」
「……」

名前なんて呼ばないで。
私にきっと、その名前は合っていない。

死を願う私に、幸せを願う名前なんて、合ってないでしょう?

だめだ。

「なんでもないってば、大丈夫」

これ以上はだめ。
笑って。

「気の、せいだよ」

笑って。

「……だいじょうぶ」

最後にこぼした声は、震えてる気がした。どうしてかな。笑ってるはずなのに。

喉が熱くて、目から何かこぼれそうなのは、気のせいだよね。

気のせいにしてよ。

「……話、聞く」

目元に手を伸ばしてこないで。

「帰り、待ってるから」
「……行かない」
「毎日待ってる」

――話せるときに、話して。

こぼれそうな一粒を拭って。

叶は私に背を向けて、その場を後にしていった。

そのときこぼれてしまったもう一つのしずくは、見ないふりをした。

 

―4―

それから、私は叶から逃げるように生活をし始めた。

「願ノさーん、今日も残業するの?」
「そう、デスネー……」
「そんでまた?」
「えぇと……叶――空下には帰ったと……」
「別にいいけどさぁ」

気にかけてくれているみのり先輩にお願いして、帰ったように見せかけて。
私はぎりぎりまで会社に残ってひっそり帰る。そんな毎日をし始めてから。

「よくまぁ二か月もこの生活して向こうにばれないよね願ノさん……」
「ちょっと、うん、空下が素直な人で、よかったなぁ、なんて……」

その素直さを利用しているのが本当に申し訳ない気がするけれども。

二か月前以上に進んでいる死願病とはまた違う意味で心を痛めながら、私はキーボードを叩いて、先輩は帰り支度を始めていく。

「でもさぁ、いいの?」
「何がですか」

「好きな人、って言ってたじゃん」

言われた言葉に、キーボードを打つ手が止まる。

それを見ていたかはわからないけれど。

「……まぁ、深くは聞かないけども? 話す必要があるならちゃんと話し合った方がいいんじゃないの」
「……」

この病気のことを?
話すだけで、今までのすべてを変えてしまいかねないこの病気のことを。

「……話せませんよ」
「どしてー?」
「……」

どうして。

「……先輩は」
「うん」
「きっと、言ってしまったら。今までの何もかもを変えてしまうようなことを、好きな人に、言えますか」
「それは隠し通せないことで?」
「……隠すにも、罪悪感がいっぱいで」

でも話したら、きっと壊してしまうこと。

また「完了」のボタンにカーソルを合わせて、聞こえてくる「し」の言葉に恐怖しながら。それを見せないように先輩の声を待った。

ボタンは押せないまま、時間だけがすぎて。

「うーん」

どのくらい経ったかわからないけれど。先輩の優しい声が聞こえた。

そうして。

「ほんとに変えてしまうものだったりするのかな」

心のどこかで願いたい希望を、口にする。

「……」
「相手の捉え方とか、自分の話し方によっては何も変わらずに済んじゃったりするんじゃないかなぁ」

その言葉に、ほんの少しだけ喉が熱くなる。
それに気づいてるのか、先輩からは「ふっ」と笑んだ音が聞こえた気がした。

そうして、私の頭にぽふって手を置いて。

「ま、そいつに嫌われちゃったらそいつはそこまでの人間ってことよ」
「……」
「あたしは何があっても好きでいる自信あるよ、願ノさんのこと」

だから、

「もしだめになったら、今度はあたしに話してみなさいな」

つらいこと、苦しいこと、悩んでいること。

「大半の人が嫌がることでも、どんなに少数でも。ちゃんと受け入れてくれる人はいるからね」

大丈夫だよ。

優しいその声に、ほんの少し背中を押されて。

まだ「完了」ボタンは押せないけれど。
代わりに、こくり。

一つの勇気をもつように、うなずいた。

 

―5―

そうして、死願病のせいで実際になってしまった残業と戦っていれば。

「……お前ほんとに二か月以上もよく逃げたよな」
「……すみません……」

きっと先輩が私のことを思って今日は「上にいる」と伝えてくれたんだろう。私以外誰もいなかったはずの部屋に、その人の低い声が響いた。

画面越しに目が合えば、叶はじとっと私を睨んでくる。その間にも聞こえる頭の「しね」という言葉も含めて、もう一度「ごめん」と言って。

「えーと、ごめんちょっとまだ残業ありまして……」
「待つでもいいし、気が楽ならその状態でもいいから話せば」
「えぇ……」

正直「待って」と言いたいけれど。
散々待たせた挙句これ以上待ってなんて言える権利はないだろうと、頷いて。

未だ「完了」ボタンにカーソルを合わせた状態から動けないまま、どう話そうかなと、思考を巡らせた。

巡らせながら、感じるのは恐怖。
この人は死願病を知っているのかな。もし私がそれだったら、どう思うだろう。

自分もその対象だと知ったら。

「……」

きっと失望した目に、変わってしまうんだろうな。
それにほんの少し、さみしさと悲しさを覚えた。そんな権利の方が、ないのに。

「幸」
「はい、すみません」

逸れかけた思考は叶に戻されて。

最後の最後に、まだずるさを出しながら、口を開いた。

「映画をね、見たんだ」

まるで一本の映画のような、地獄の物語。

「死願病って知ってる? 聞いたことある?」
「……あれだろ、他人を対象に”死”を願う病気ってやつ」
「そう。……その、映画をね、見てさ」

本当に、辛いだろうなぁって。

頭の中でまた「しね」って音が聞こえてくる中。その声でボタンを押す指は動けない中。

口だけは、勝手に動いてた。

 

私には、大好きな人たちがいます。家族や友人、知り合って意気投合した人たち。きっと私は、その人が大切にしているものも大好きでしょう。
私には、大切にしているものがあります。大好きで、手放せなくて。命に変えてもやり続けたいことが、たくさんたくさんあります。それは夢として。いつか、必ず叶えたいと心に決めていたことがありました。

けれど夢に向かいたい、これをやればきっとまた一歩近づける。そんなときに限って。

いろんなことが、私の邪魔をする。

この死願病だってそうだ。

一歩進もうと思えば大好きな人たちへ「しね」という言葉が聞こえてくる。
もしもそのまま進んだら、その人たちが本当に私の願いによって死んでしまうんじゃないか。
それが怖くて怖くて進めない。

自分としっかり向き合うと、その「しね」という思いは自分に向けたかった言葉だと知りました。本当にその人たちに思いたいわけではないと知りました。
けれど思考は他人を使って、私をいじめてくる。

大切な人たちに「しね」と言葉が聞こえます。
その大切な人が大切に思っているもの、人にも「しね」と聞こえます。逢ったこともない人でも、その人が大切にしていたならば対象になっていく。

たとえ本当は「私」に向けられた思考の声だとしても、だんだんとわからなくなるんです。

私は本当に、その人たちのことが大切ですか。大好きですか。

大好きだったとしたら、どうして「しね」の対象にするんですか。

苦しいよ、辛いよ。
思いたくないのに思ってしまったら、私は罪の意識が芽生えます。

思えば思うほど、その罪の意識は大きくなって。

私はだんだんと、大切な人たちを好きでいていいのかわからなくなります。

大好きな人なのに、「しね」とよぎった数だけ罪悪感があって。このままこの人のそばにいていいのか、あこがれの人を目指していいのかわからなくなります。

「……だんだん何をするのも辛いんだろうな、苦しいんだろうな、って。映画見てたら、感情移入しちゃってさぁ」
「……」
「ドキュメンタリーみたいな感じでね。その死願病は、最初は取り上げられてたけど。周りの声もあってだんだんとニュースとかでも取り上げられなくなったんだって」

確かにどっちも辛いよね。
思ってる本人も辛いし、きっと、病気だとわかっていても思われている相手も辛い。

本当に、辛い病気だと思う。

「なんとなくそれで、真剣に考えちゃって」
「……ミスも多くなったって?」
「そんな、感じ」
「ふぅん……」

叶の音を最後に、部屋には時計の音だけが響く。
私はまだ、「完了」ボタンを押せないまま。

たった数秒なのか、結構な時間なのかわからないけれど。沈黙に耐え切れなくて、口を開いた。

「……叶はさ」
「うん?」
「もし……まぁ今でも先でもいつでもいいんだけど。……想いを寄せた人が死願病だったら、どうする」

それをカミングアウトされたら、どうする?

なんとなく叶は見れなくて。未だ動くことのない人差し指をぼんやり見る。

また時計の音が聞こえ始めて、しばらく。

「……」
「……俺がもしカミングアウトされたら」

叶が、しっかりとした声でこぼした。

 

「まず、ほんとにそれはいわゆる”死亡”のしねだったのか聞く」

 

その言葉に。
しっかりと声は聞こえたはずなのに、うまく処理ができなくて。さっきまでは見れなかった叶を反射的に見ていた。

「……聞く?」
「聞く」

しっかりと頷いて。

「ほんとに死んでほしくて願ったのか聞くよ。でもそれに苦しんでるやつらは、別にほんとに死んでほしくて願ったんじゃないんだろ?」
「……そう、だね」
「それの確認が取れたら、考え方を変えてみる」
「考え方……」
「そう。そりゃあさ、”しね”なんて聞こえたら思いつくのはいわゆる死亡の”しね”かもしれないけど。頭の中で聞こえるってことは別に漢字変換なんてしてねぇじゃん」
「……」
「よく流行ってんだろ、略語みたいな」

俺だったら。

「”しね”って言葉は”幸せになってね”の略語にすればいいんじゃねぇのって、そいつに言うよ」

――そうして。

「今までそいつが”ごめんなさい”って思った数だけ、”幸せを願ってくれてありがとう”って言う」

大切な人。その大切な人の、また大切な人に。

幸せを願ってくれて、ありがとうと。

「……そう考えたら、楽なんじゃねぇの」

こつり、こつり。
画面の方に目を戻せば靴の音が聞こえた。でも私はそっちを向けなくて。ただただ、だんだんと見えなくなる画面をしっかり見ようと目を凝らす。

「怖かったら、楽な方向に考えていいんだよ」
「っ、……」
「例えばこのボタンを押したからって、そいつが死ぬわけじゃない」

押せずにいるマウスに乗せている手に、あたたかな手が重なった。

「最初は怖いかもしんないけど、ボタンを押して」

カチリ、上からボタンが押される。その時にまた、私の頭の中には「しね」と聞こえた気がした。
その罪悪感に襲われそうになる前に。

「そんで”しね”って思ったら、お前はまたひとつ、誰かの幸せを願えたことになる。その人は今以上に、周りに愛されて幸せになる」

そういう考え方したっていいんじゃないの。

「ぅ、……っ」

――許されますか。

この”しね”という音がいつか聞こえなくなるまで。今は、「幸せになってね」という言葉を縮めたものだよと思っても、許されますか。

「自分がそうやって許してやれば、大丈夫」

言葉にしていないはずなのに、上からは優しい声が聞こえて。いつの間にか流れていたしずくがさらにぽたぽたと落ちていく。

完了ボタンが押されて、画面が切り替わったところで、頭にはぽふりとあたたかい手が置かれた。

「ずっと辛かったんだろ」
「……ん」
「たぶんさ、普通ならって言ったら失礼かもだけど。当たり前にある感情で、思ったら”あぁ思ったな、あいつムカつくところあるもんな”くらいで済ませられるものだと思う」
「……うん」
「でもそれについて、すっげぇ考えて、罪悪感感じて、思わないように頑張って、ちゃんと心の中でずっと謝ってきたんだろ」
「、うん」
「そんくらいお前は優しい人間ってことを、もっと褒めたらいいんじゃねぇの」

苦しかったね、辛かったね。よく頑張ったねって。

「そう褒めたら、もうそのことは忘れたっていいんじゃね。罪悪感感じる必要もないし、戻りそうになっても、”今は幸せを願った”って思いなおせば大丈夫」

だからもう。

「苦しまなくていいんだよ」

優しく撫でられながら紡がれる言葉に、いつの間にか声を上げて泣いていた。

辛くて、苦しくて。
罪悪感でいっぱいで。何もかも手につかなかった。

考え方を変えればその言葉を言っていいとか、思っていいとかそういう問題でももしかしたらないのだろうけど。

それでも、この苦しさから逃れるまでは――ううん、この苦しさを感じていた自分も、ちゃんと愛せる日が来るまでは。

私は今日から、幸願病しがんびょうの疾患者だと、心に言い聞かせて。

誰かの幸せを願おう。

自分の名に恥じぬように。

 

そう、心に決めて。

私は今までの苦しさや辛さをすべて出し切るくらい、叶の腕の中で涙を流した。

 

―エピローグ―

イヤホンを付けて、いろんな音をシャットアウトする。
世界の音、周りの人々の声。

私は音の世界に埋もれて、道を歩いていく。

「お」

待ち合わせ場所に着く直前、小さな命がすり寄ってきた。それに顔をほころばせて、しゃがんで受け入れる。

「かわいーねお前」

まるで「撫でて」というようににゃあと鳴いたその子に、手を伸ばした。

音の世界からかいくぐって聞こえたのは、今ではほとんど聞こえなくなった”しね”という言葉。

それには笑って。

あたたかい、小さな命へと触れる。

そうして自分にも言い聞かせるようにして。

「幸せになってね」

たくさん愛されますように。たくさんの幸福が訪れますように。小さく呟けば、応えるようにまたにゃあと鳴いた。

それに笑って。

「幸」

呼ばれた声に、顔を上げる。
そこには空の下で笑う、想いを寄せた人。

その人を見た瞬間、また”しね”と声が聞こえたけれど。小さな命が離れていったことを確認してから、笑って腰を上げた。

「ご機嫌じゃん」
「うん」

だって。

「また幸せ願っちゃったから」

そう、笑えば。

苦しみから解放されたいという願いを叶えてくれたその人は、笑って。

「そりゃよかった」

楽しそうに前を歩くから。

いつかは自信をもってあなたの隣を歩けるように、前をしっかり向いて。

何度もあなたの幸せを願いながら、二人、休日の駅へと向かっていった。

『―幸願病― 私は、あなたの幸せを願う』/志貴零