”かわいそうなあなた”は”最高な私”である

私の話を聞くと、たいていの人が言った。

「若いのにかわいそうに…」

私はそう言われる度に、とある漫画に登場する人形の少女の言葉を思い出す。

”私たちは、自分をかわいそうだと思わない”と。

これを書いている私は、「子宮頸がんワクチンの副反応」というものを患っているらしい。
”らしい”と書くのは、私はその症状を持っていて、なおかつ少々重度な症状にも関わらず、決められた「認定期間」なるものから外れてしまったため、医者も断定することができないからである。

「子宮頸がん」というものは多くの人が知っていると思う。十年ほど前、ちょうど私が中学生の頃は、それを予防するためにワクチンの接種が学校で行われていた。それを受け、私は少し遅かったが二十歳頃に副反応の症状が出た。
ざっくりとどんな症状かだけ書くと、私がメインでなるのは「不随意運動」という、体が勝手に動くものである。全身なるが主に右腕に出て、よく左右にブンブン腕を振っていた。他には脱力発作という、いきなり力が抜けてしまうものもある。ピークのときは家でバタバタとよく倒れていた。
この「子宮頸がんワクチン」の症状は人それぞれ違うということと、理解あるお医者様曰く様々なスイッチがあることから本当にいろいろな症状があるという。私も二点挙げたが、細かく挙げていくと少々きりがない。もし興味がある方はこのHPに私の症状一覧を置いているのでそちらを見てほしいと思う。

そんな子宮頸がんワクチンの副反応は、二十歳頃から始まってすでに六年の付き合いである。

突然不随意運動や脱力発作を起こす可能性があるため、外での仕事はできなくなった。
利き手である右手が主に発作が起こるため、日常生活にも支障が出た。

ここ最近で、「ヒーリング」と呼ばれる病気の改善行為を行う方と出逢い、だいぶ昔に近い状態にまで戻ることはできた。ただ、これはご本人も強く言っているのだが、「ヒーリング」というものはあくまで「改善行為」である。
昔に近い元気さを取り戻したが、未だ症状は残っており、この病気との付き合いは未だひそかに続いているし、変わらず外で仕事をすることには不安があるためしていない。

この病気を患ってからこんな言葉をよく聞くようになった。

「若いのにかわいそうに」、と。

たしかに、一般的に見たら私は”かわいそう”なのだろう。

療養していたこの数年間、仕事ができないのだから収入はない。つまり基本的に自由に使えるお金もそんなになかった。
主に発作が出るのは右腕。利き腕に出るのでペンをノートに走らせる時間も極端に短くなった。
大好きなピアノもなかなか弾けなくなった。今一度言うが私は主に右側に発作が出やすいので、ペダルも右ではあまり踏めない。
脳の興奮状態によって発作が出る、と思われる――原因が不明なので”思われる”と書く――ので、光が多いアニメやゲームも見れないことも多かった。今でも長時間はやはり難しい。

そしてなにより。

花の二十代と言われるような、おそらく一番楽しい時間に、私はずっと家で闘病をしていた。(当時いた恋人ともろくな思い出を作ることはできなかったのは大変申し訳ないと思う)

その花の二十代の楽しさを知っているからか、なおさら言うのかなとも思う。

「若いのにかわいそうに」。

けれど私はその言葉を聞くたびに、昔読んだ兄の本棚にあったとあるドールたちの物語を思う。
そのキャラクター自体は推しというわけではなかった。しかし彼女の言葉は今でも私の中に強く残っている。

「私たち、自分のことをかわいそうだとは思わない」と。

妙に残っているのは当時から病気を患っていたからかもしれない。
その言葉があったおかげか、私はどんなに病気を患っても自分をかわいそうだとは思ったことがなかった。

私は利き手にまひや不随意運動が出やすかった。それならば左手を使えばいいと思えた。幸い、小学校・中学校と近くに左利きの子がいた。左利きを「かっこいい!」と思っていた私はときたま左を練習していた。その甲斐もあってか、不随意が起きたときは左手で食事ができていた。なんだかんだこの闘病期間は左の訓練にもなり、未だ補助的ではあるが、左は裁縫をしたりメモをしたり、うまく左右でバランスを取れるようになった。
大好きなピアノはたしかに前のように好きなタイミングで弾けるわけではない。それでも大好きだから、弾けるときに弾いた。ペダルは未だに右では難しい。ならばとペダルは左に変えた。

いわゆる「ふつう」とは違う形でも、私は私のこの世界をいつの間にか楽しむことができた。

そしてなにより。
この闘病期間は「最高な私」を作り出してくれた。

闘病期間、最初の方はもちろん発作もひどかったので戦うことばかりではあった。発作が落ち着き始めてからは、母や兄の支えもあって、いつか必ず治ると思いながらたくさんの「好きなこと」をやらせてもらった。

中学校のときの友達がきっかけで小説を書くのが好きだった。ならばあのとき書ききれなかったことを書こうと、私は筆を執った。
絵を描くのが好きだった。ならばもっとうまく描くためにと勉強をした。
薬の副作用で鬱になってしまったとき、母が「余計なことを考えないように」と折り紙を与えてくれた。おかげで私は紙でなにかを作るのが好きになった。段ボールでギターとベースを作ったのは記憶に新しい。
昔から、自分の作った曲で自分で歌って、自分で映像をつけたい!という夢があった。

この闘病期間、多くの勉強をして、私はつい先日、その夢を叶えることもできた。

あまり外には出られないのも苦ではなかった。もとより家の方が好きだったから。それがこの闘病で、新たに「外に出れないなら家にあるものでやってみよう!」という気持ちが出た。よって私は足りないものは自分で作るようになった。

振り返るともちろんつらいこともたくさんあった。勝手に動く体、突然倒れることでどこかにぶつけるんじゃないかというような恐怖感。まるで地獄のような、毎日同じ景色と流れる時間。
それでも、今では笑って話せることがたくさんある。

この期間に多くのことを学べて、できるようになった。

少しずついろんなところにも行けるようになっている。たくさんの、私にとっての「最高」が私の世界にあふれている。

これの、どこが”かわいそう”なのだろうか。
私は私自身をかわいそうだとは思わなかった。

世間一般では若くして病気になり、思うように外に出れない私はたしかに「かわいそう」なのだろう。
けれど私は思う。

世間が言う「かわいそうな私」は、私にとっては「最高な私」であると。
その「かわいそう」と思われる長い時間、私は「最高」でたくさん埋め尽くした。

この闘病期間は、私がもっと「最高な私」になるための必要な時間だったのだと、振り返って思う。
そんな私は今日もたくさんの「最高」を創り出すため、笑顔で筆を執る。

そしてもしも、「かわいそうにね」、なんて言われたらこういうのだろう。

「かわいそうなのではなく、最高なんだ」と。

『”かわいそうあなた”は”最高な私”である』/志貴零