すれ違った君に、次はきっと”初めまして”と返すだろう

──今はもう、思い出すことなんてほとんどない。一生の後悔を背負って終わった、一つの恋愛話。

「……はー……」

 運命の繰り返しが何百回目かわかんなくなってきた頃の、争いが少し多かった時代。明日があるかなんてわからない、今日も、生き抜けるかわからない毎日。そして、どんなに生き抜いても、どんなに平和な場所に行っても。もっとも求めた「明日」は、儚く散ってゆく。

 そんな繰り返しに絶望ばかりの、だいぶ荒れてた時期。割と悪い癖があった。

「……つまんな」

 血のついた短刀を振って、ビッと血を落とす。

 人通りが少ない路地裏。足下には、うめくがたいのいい男たち。それを、冷たく見下ろす。

 そっちから喧嘩売ってきたのに。乗らないと妹がどうなるかわかんないぞ、なんてご丁寧にもありきたりな脅し文句まで言って。

 このざま。

 つまらなくて、ため息をこぼした。

 今日はどうしようかな。たまには、このまま放置してもいいだろうか。最近後片づけめんどくさいし。
 なんて、ぼんやり下にはいつくばってる奴らを見ながら思っているとき。

「またやっているのかお前」

 聞こえた声。
 そっちを向いたら、人通りが多い町の、少し明るい方に親友が立ってた。

「……別に俺悪くないよ」
「ぱっと見たら明らかにお前の方が悪くなるが?」

 どうでもいい。そう小さくこぼせば、親友はため息を吐いてこっちへ来る。

「カリナがまた心配する」
「……」
「イライラしているからと言って喧嘩ふっかけてくる奴らを殺すな」
「今回は殺してない」
「ほぼほぼ息の根を止めているだろうが」
「……」

 どうせ何言っても返されるっていうのはもうわかってて。それ以上は言わずに、リアスが差し出してきた服を受け取る。

「着替えておけ」
「……めんどくさいんだけど」
「さすがにその返り血は俺もごまかせない」
「どうせ毎回ごまかせてないだろ」
「ならそろそろやめろいい加減」

 ──罰が重くなるだけだ、なんて。さらにどうでもいいことを言う。

「心配性がだんだんひどくなってる親友につき合ってるんじゃん」
「最近はお前の方が重くて俺がつき合っているんだが?」
「そうだっけ」

 乾いた笑いには、呆れたため息で返された。
 それにも、何も返すことなんてせず。ただただ渡された服を着て、今まで着てたものはその場に捨てて。

 歩き出す。

「レグナ」
「あとで帰る」
「……遅くはなるなよ」

 頷きもせず、明るい方向に歩いていって。

 その日も、”向こうがふっかけてきたから”なんて言い訳をして、向かってきた奴らを返り討ちにする日を送ってた。

 数回前くらいの人生から出てた悪い癖。繰り返す度どんどん悪化する一方のそれに、カリナたちが心配していたのも知っていた。
 けれどやり場のないものを発散したいのも確かで、とくにやめる気もなく過ごしていたけれど。

 十五歳になった秋のある日から、その悪い癖は徐々に減っていった。

「……っ」

 今日も、目が気にくわないだとかで喧嘩をふっかけられていた。相手はだいぶ前にぼこぼこにした奴ら。
 仲間を見つけて、自分たちも強くなって、また俺に喧嘩をふっかけてきた。

 さすがに、二十人近くいると正直きつくて。

「いって……」

 情けないことに、喧嘩には負けて今俺は地面に伏している。あのときやっぱり始末しとけばよかったっていうのは、焦りにかき消された。

 こうしちゃいられないから。

「……帰んなきゃ」

 カリナのとこに行かないと。
 俺を殴ってる間に行くだのどうの言ってたから向かってるはず。

 早く起き上がって、家に着くまでに追いつかなきゃ。カリナたちが危ない。

 そう思うのに、体に力が入らない。だんだん瞼が重くなってくる。さすがにここで終わっちゃだめだろなんていうのはわかっているけれど、言うこと聞かない。

「っ……」

 こういうときだけは、ハーフであることを恨む。テレポートなんてできないし、回復魔術もここまでヒトの往来が激しいと難しい。ハーフだってバレたらこの町で過ごすのも大変だし、そもそもここで騒がれたら家まで戻りづらい。

 体は痛いのに妙に頭が冷静で、そこまで考えて。

 まだ傷ついた子供の方がまぎれやすいからと、立ち上がった、

 ──ときだった。

「大丈夫?」
「!」

 すっと、影が差す。
 ぼんやりしてて足音に気づかなかった。弾かれたように上を向けば。

 その人は、大きな目をさらに大きくして驚いていた。

 金色の目。暗い藍色のきれいな髪。夜空に浮かんでる月みたいな、そんなヒトに、思わず目が奪われる。
 何秒くらいそうしてたんだろう。
 わからないけれど、動かない俺を不思議に思ったその人が、先に口を開いた。

「怪我、大丈夫?」
「は……?」
「大怪我していますけれど」

 ここ、と伸ばされた手。
 それを見た瞬間に、魅入っていたのが嘘のように反応した。

「っ触るな!!」

 音を立てて、それを弾く。
 その人はまた驚いたように目を見開いたけれど、今度は気にならなかった。

 さっきまで感じてた痛みはもうなくて、ただただ目の前の人に敵意を放つ。
 殴られていたときに落とした刃を拾って、切っ先を女に向けた。

 そうしたら、すぐ逃げるから。

 女子供は刃物を向けたら逃げてくれる。
 無駄に傷つけずに済む。すでにもう何人も傷つけてきたくせに、相反した思いが巡って。

 その人の行動に、気づかなかった。

「怯えないで大丈夫よ」
「……っ!?」

 気がついたら、月みたいな人がさっきよりも近くにいる。

 あろうことか刃を手で握って。
 流れてくる血なんて気にせずに、俺をまっすぐ見ていた。

「な、にして……」
「ぼろぼろね、ひどいことされたの?」

 優しい声が、耳に響く。

「手当しましょう?」

 その声に止まりかけた体にむち打って、そっと伸ばされてきた手に、身を引いた。けれど後ろに何かぶつかって、それ以上引くのを阻む。
 それでも引こうとする俺の頬に、その人はそっと触れた。あまりの温かさに、自分の嫌な部分まで溶かされそうで。ぞっとした。

「っ触るな!!」
「落ち着いて、痛いことはしないから」
「帰るっ!! 離せ!!」

 叫びながら、すっかり抜け落ちていたことを思い出す。

 ──そうだよ帰んなきゃ。

「傷が開くわ」
「うるさい!! 帰る!! 早く帰んないとっ……!!」

 帰らないと、カリナが。

「危ないから、早くっ……!」
「えぇ、帰りましょう。先に血を止めてからね」
「離せ!!」

 ふりほどきたいのに、力が入らなくてふりほどけない。
 だんだんと目がかすんでくる。心なしか、体が傾いてってる気がした。

「大丈夫よ」

 それを、温かさが止める。

「大丈夫。すぐに終わりますからね」

 ぞっとするのに、どこか心地よくて。
 抱きしめられてると知ったのは、背をなでられ続けて、だんだんと呼吸が落ち着いてから。

「……」

 ほっと息をついてしまったのを知ったその人は、もう大丈夫ねなんてきれいな声で言って。

 体重を預けている俺の治療を、黙って始めた。

 そのあとは、その人に連れられて家に帰り。ひとまずカリナたちには何事もなくほっとしたのもつかの間。

 リアスにはこっぴどく怒られて、カリナには泣かれ。いつもは味方のクリスティアにも怒りの一撃を食らうという散々な一日を送り。

 人から見たら最悪な出逢いをしたその人──言ノ葉儚月ことのは はづきは、

「レグナはいる?」
「……」

 あれから数週間ほど。何故かほぼ毎日俺の元へ通ってきている。

 いる? って聞きながら部屋を見回して。俺を捉えると、にっこり笑いながら歩いてくる。反射的に後ずさるも、律儀な親友に膝で背中を押されて逃げ場がない。

「……」
「こんにちは」
「……」
「お前の口は何のために付いている」
「いって」

 どうしようもなく黙ってれば、今度は頭をぺしんと叩かれた。笑う儚月に居心地悪くて逃げ出したいけれど、やっぱり逃げ場なんてなくて。

「……どーも」

 小さく、挨拶を返す。ようやっと満足したリアスが離れてく足音を聞きながら、視線は儚月へ。

「……今日は何」
「お話しましょう?」
「またかよ」
「カリナさん、お借りしても?」
「えぇもちろん。お好きなところへぜひ」
「ちょっ──」

 なんでそこで毎回許可を出すかな、なんてのは言う暇もなく。儚月は俺の腕を思い切り引っ張って立ち上がらせた。

「…いってらっしゃい…」
「まっ、クリスそろそろ止めてこれっ」
「儚月、連れて行くのは構わないが」
「わかってますリアスさん、暗くなる前に、ですね」
「あぁ」
「リアス!」
「さっさといってこい」

 できれば遠慮願いたいのに、最近よく見るようになった、少し穏やかなリアスの顔にどうしても逆らえず。引っ張られるまま、家を出る。

「離せって」
「ふりほどけばいいでしょう?」

 そうこっちを向いて笑う儚月に。ふりほどく力が出ないのは何故なのか。

 心の中に問いかけるけれど、いつも答えはなくて。
 面倒だからと勝手に自分で答えを作って、ため息を吐く。

「……”お父様”にばれたらまずいんじゃないの」
「そしたらご紹介するわ」
「冗談きつい」

 俺の言葉に儚月は上機嫌に笑ってから腕を引っ張るのをやめて、代わりに俺の手を取った。

 腕を引けば、するりと抜けられそうなそんな強さ。

「……」

 けれどやっぱり、ふりほどく気にはなれなくて。緩く引っ張られるまま、儚月の一歩後ろを歩く。

「隣を歩いてはくれないの?」
「……世間知らずなお嬢様が転んだときにすぐ他人のフリしたいんで」
「ふふっ、優しいのね」

 自分の保身のための何が”優しい”んだか。どうせ言ったって「優しいでしょう」なんてのが返ってくるのでそれ以上は何もいわず。

 最近儚月が気に入ってる、静かな湖の畔まで歩いていった。

「それでね──」

 緑が広がる、きれいな湖の畔。
 人があんまり来なくて、静かで。正直好みの場所だった。

 そんな静かな場所では、ただただ儚月が話す。

 着いて早々、今日あったことだとか自分のことだとかを一方的に喋ってくる。
 俺はと言えば、少し後ろに手を着きながら座って、その人のことを聞いてるだけ。

 たった数週間なのに、この人の情報は一方的に増えたと思う。

 言ノ葉儚月。
 この町のお偉い様の一人娘。歳は俺の二つほど上。町を出歩くのが好きで、昔から頻繁にふらふらと町中を歩いていたんだとか。ときには喧嘩の仲裁にも入り、怪我した人の手当をして。新しい商品には敏感。町の人曰く、庶民に近いお嬢様。
 琴が好きで、着物は動きやすいものが良い。甘味にはうるさくて、着物は気に入った店があって。町歩きに寛容な”お父様”とはずいぶん仲がいいらしく、この人の話題にはよく出てくる。こんな姿を見たとか、どうでもいいような情報までぺらぺら喋ってくる。
 それは今日も変わらず。

「昨日帰りに冬楽亭とうらくていのお団子を食べて帰ったの」
「……」
「新商品が出ていてね、ものすごくおいしかったのよ?」
「……そ」
「今日帰りに買っていきましょうね」

 なんでそこで当然のごとく決まるのかが謎である。

「クリスさんならとても気にいるんじゃないかしら」
「そーね」
「聞いてるの? 蓮」
「聞いてるって。相づち打ってるだろ」
「素っ気ないじゃない」
「元から」
「リアスさんは人当たりが良いやつって言ってたわよ」

 あんの親友よけいなことをっと思うけれど。
 いつも余計なことばかり言うその人に、呆れた目をくれた。

「なぁに?」
「いや……あんたよくまぁ自分のことそんなぺらぺら喋れるよなぁって」
「そう?」

 いやそんな「何言ってんの」みたいな顔されても。そう思うでしょうよ。

「名前くらいしか言ってない奴にそんな自分のこと喋って大丈夫なの?」
「男の子というのは知っているけれど」
「それ以外は何も言ってない」
「妹さんがいるわ」
「……」
「そして一緒に暮らしている幼なじみがいて」

 黙った俺に、穏やかに指折り紡ぎ出す。

「気遣い屋さんで、頑張り屋。いつも細かいところに気づいてくれて、けれどそれを表に出そうとはしない。幼なじみと妹さんが大好きってことも知ってるわ。あとは喧嘩が強くて、でも誰彼構わずやろうとはしない」
「……」
「あなたが喧嘩に応じるのって、この町で悪いって言われてる人たちなの、知ってますよ」
「……一言も言ったことないけど?」
「えぇ、あなたからは一言も。大半は妹さんから」

 でも、見てたらわかるわ、なんて。

 きれいに笑うから。

 なんとなく、言葉を返す気もなくなる。

「……そ」
「照れたのね」
「どんだけ目のフィルターが自分勝手なんだよ」

 呆れたように返して、草の絨毯に寝転がる。
 上から覗くのは、真っ青な空にぽっかり浮かぶ、二つの月。

「レグナ、お話は終わってなくてよ?」
「まだあんの」
「今日ここまで来るときに面白い話があったの」

 そう言って、また話し出す。
 楽しそうに、嬉しそうに。こんなことがあったよ、明日はこうかもね。そう言う姿は。

 どことなく、昔の妹に似ていて。

 あぁだから拒めないのか、なんて自分に納得して、心地よい音を聞きながら目を閉じた。

 その拒めない理由が、なんとなく妹と似てるからっていう理由じゃないんじゃないかと気づき始めたのは、それから一年弱くらい経った秋のこと。

 次の春には十七になって、また最後の一年が始まる、少し前。

 儚月は変わらずほぼ毎日のように来た。
 俺を引っ張っては湖の畔に連れて行き、今日あったことや明日の予定とかをぺらぺら喋る。よくもまぁ毎日話題が尽きないもんだと思うけれど、女性はお喋りというのは妹でよく知っていたので、ただただ話を聞いていた。

 お昼ぐらいに来ては夕方まで拘束。家まで送られ、その後は幼なじみと妹との時間。たまたま儚月が来ない日は買い出しやら用があるやらで連れ出される。一人の時間なんてありもしない。

 おかげで。

「”悪いお出かけ”には行かなくなったな」
「……」

 ずっと続いていた悪い癖はこの頃にはすっかりなくなり、寝転がってる俺を上から覗く紅い目も、穏やかに笑うことが増えた。

「リアスは笑うようになったね」
「そりゃ親友の面倒が減ればな」
「……」
「儚月のおかげか」

 名前に、ほんの少しだけ心音が大きくなったのは気づかないフリ。

「珍しいじゃないか、ああも女に絆されるなんて」
「……あの月みたいな目にはなんか逆らえないんだよ」
「俺には普通の金色の目にしか見えないが?」

 ちゃかすように言う親友を睨む。

「立場が逆だな、昔とは」
「今あの頃茶化さなきゃよかったってすげぇ後悔してるよ」

 水吹き出す姿に笑ってる自分をめちゃくちゃ殴りたい。
 そして今、珍しくいつもの無表情を崩して楽しげに笑っている親友も。

「……そんなことより早くクリスと進展すれば」
「お前よりかは十分進展している」
「キスも禄にできないくせに」
「恥ずかしがり屋な恋人にはもう少し時間が必要でな」

 それよりも、ってまた話を戻してくる。

「そろそろ言ってもいいんじゃないのか」
「何を」
「聞きたいのか?」

 ぐっと、喉が鳴る。そんな俺に笑って。

「鈍感なお前でももう気づくだろう」

 そう言って、空のコップを手に俺から離れていく。

 数年前なら、それにも”何が”って返していたのに。
 今は、リアスが言っていることをわかってしまう。

 ふっと脳裏に浮かぶのは、月みたいな人。
 その浮かんだ笑みに、心音が早くなる。妙に、頬が熱くなる気もした。

 その感覚に、覚えがないわけじゃない。

 遠い昔。心に決めた人がいたときと同じ感覚。

 このままきっと進んで、リアスやカリナの結婚を見守って。
 俺たちもあんな風に、って思い描いてた頃。

 さすがに全く一緒な反応となれば、気づかないほどバカじゃない。

「……好きとは思うよ」

 話は長いし、いつだって勝手だし。あっちだこっちだ毎日いろんなところに振り回された。そこだけなら、どちらかと言えばめんどくさい女とすら思ってた。

 けれど残るのは、本当に嬉しそうに、楽しそうに歪む月みたいな瞳。

 あぁこの顔が見れるなら、また明日もつき合ってもいいかもしれない、なんて。思い始めたのはいつだったか。

 でも──。

「言えばいいじゃないか」

 起きあがった俺の背中に、体重がかかる。
 それに、今日は俺の体重を預けることはしない。

「言わないよ」

 自分で抱え込むかのように、膝を抱えた。

 ──言わないよ、今回は。

 違う、”これから”は。

 だって、

「十八で死ぬのに、想いを伝えてどうなるって言うの」

 少し遠くで何かが落ちる音が鳴ったのは、聞かないフリをした。

「……こう言うのもなんだけどさ」
「……なんでしょうか」
「そろそろ結婚しないの?」

 そう、目の前の月に言ったら心底心外だって顔をされた。

 十八になる年の十二月。
 あと少しでカリナが体調を崩し始める頃だろうか。少しだけ気を張ってる中、儚月は変わらずにやってくる。

 もう二十歳という、この頃にしてはずいぶん行き遅れた独り身の状態で。

「恋人は」
「いないけれど? そういうあなただっていないでしょう」
「俺は作らないんだよ」

 言うと、ほんの少しだけ、悲しい顔をした。その真意には気づかないようにして、息を吐く。

 十二月となると、湖の畔はだいぶ寒い。真っ白い息が口から出て行く。

「そろそろ動かないと貰い手いなくなるんじゃない?」
「数年前はそんな嫌味なんて言わなかったのに……」
「昔からこうだけど」

 笑ったら、今度は頬が赤くなった気がした。

 照れたように視線を逸らす儚月はきれいで、思わず心音が高くなる。

 それだけなら平静を装っていられるのに。

 じり、と。少しだけ寄ってきた体に、ごまかせないくらい音がうるさくなった。
 気づいてしまった想いにどうにか蓋をして、触れそうで触れない手はそのままに、視線だけ逸らす。

「……寒い?」
「……いいえ」
「頬赤いけど」
「……昔からよ」

 その”昔から”は、どんな意味? 聞きたくなった問いは、飲み込んだ。

「……熱でもあるんじゃない」
「……そうね、浮かされてるわ」

 ドッと音が鳴る。
 言ノ葉なんて名字だからか、妙に言葉遊びだけはうまいなと。

 最近妙になる変な雰囲気に、少しだけ熱くなった息を吐いた。若干白さがないのはきっと気のせい。

 気のせいじゃないのは、ここ最近の彼女との距離。

 

「……ねぇ」
「なにかしら」
「……近いんだけど」

 いつからかなんて明確には覚えてない。けれど確かに、前よりも座る距離が近い。
 そっと向けた視線の先の月は、どことなく、甘い。

「昔からそうじゃない?」
「前はもっと遠かったよ」

 そうかしら、なんて言いながら、また。
 じりじり近づいてくる。

「私は寒いの」
「さっき寒くないって言っただろ」
「言葉遊びよ」

 どことなく、必死なような。そんな雰囲気も持ちながら。

 あからさますぎるような態度に、どうしたって期待してしまう。

 でもすぐに、応えられないことを思い出して、すっと頭が冷える。

 近いのに遠いようなその人から、もっと距離を作るように立ち上がった。

「レグナ?」
「……帰ろ」
「……もう少しいましょうよ」
「寒いんだろ。風邪引いたら困る」
「……」

 ほら、と。
 促すけれど、声には答えない。

「寒いんだけど」
「……」
「ねぇ」
「……レグナはっ」

 金色の瞳が、意を決したように見上げてきて、体に緊張が走った。
 さっきよりも赤くなった頬につられて、体がどうしたって熱くなる。

 視線の先のその人は、一度目をうろうろとさせてから、なんとか冷静を装ってる俺をまた見上げた。

「……何」
「……レグナ、は……」

 数秒の静けさが、何時間にも感じられる。

 紡がないで。

 でも──、なんて、相反した思いが駆けめぐって、結局何も言えずに彼女の口が次を紡ぐのを見る。

「その、寒さを分かち合う存在には、なれない……?」

 確定のようでどこか曖昧な言葉。この数年で慣れた言葉遊びのような伝え方に、嬉しいはずなのに、苦しくなる。

「……」

 ──ねぇ儚月。

 手を伸ばしたら、君は笑ってくれるの。

 想いが一緒だったとして。これからの時間、短いなんて言葉じゃ足りないほどあっという間だけど、それでもいいの?

 独りになったときに、悲しまない?

「……っ」

 聞いてしまったら、すべて「いいの、大丈夫」と包んでくれそうで。

 伸ばし掛けた手を、強く強く握りしめて、止めた。
 

 そうして、笑う。

「弟分に甘えるなよ」
「……」

 ぐっと、悲しさを抑えたような目には、やっぱり気づかないフリ。

「……帰ろ」

 立ち上がらせることもせずに、歩き出す。

 あぁ最低だな、なんて。思わず笑ってしまった。

「……冗談よ」

 後ろから裾を引っ張ってきた彼女に。泣きそうな声で冗談だと言わせてる。

 昔から変わらない、最低で弱い自分。

 だから、

「あのね、心配ないの」
「……」

 こうして罰がやってくる。

「縁談が、来てるから」

 だから大丈夫と、小さくこぼした声には、

「……そ」

 ただただ、昔と同じようなそっけない言葉しか返せなかった。

 そこからは、あれよあれよという間にいろんなことが決まって、終わっていった。

 儚月には、結婚する人ができた。

 年が明けた頃にはもう町で噂になって。案の定体調を崩し始めたカリナの看病に追われながら、どんな人だとかどこの人だとかを聞いた。
 そして、毎日のように家に来ていた彼女は。

「……いいんです?」

 めっきり来なくなり。

 今、俺といた湖の畔には、太陽みたいに明るい男の人と共にいる。

 気分転換にと妹を連れて出た先で、それを見つけて。
 カリナは、少し気まずそうに俺を見た。

 そんな妹には、いつもの通り笑った。

「何が?」
「儚月さんの結婚ですよ」
「嫁の貰い手が見つかってよかったじゃん」
「レグナ」
「毎日話聞かされずに済んで清々してるよ。それに俺は今お前の看病で手一杯」

 そう言ってしまえば、カリナは何も言えなくなって。

「行こ。体に触る」
「……はいな」

 少しだけ細くなってきた手を握りしめて、家へと連れ帰った。

 そうして、時折見えるその人たちなんて気にも止めないくらいカリナの看病に力を入れた。
 今回だって救えないかもしれない妹を、救いたくて。

 病状に似た病気の薬を使ったり、民間療法を試したり。

 毎日薬屋に行って、新しいのがないか見に行ったり。追われるように毎日を過ごしていたらいつの間にか、町には桜が咲いていて。

 儚月と逢わなくなってから少し。ようやっと、いろんなことに慣れてきた。

 来なくなった昼の来客。

 太陽と寄り添う月の姿。

 彼女に出逢う前の、つまらない日々。

 きっとこのままいつもの日々に戻って、少しずつ忘れていくんだろう。

 忘れてしまえばいい。

「……」

 そう思うのに。

「…レグナ?」

「……」

 月からやってきた姫の土産話に出てきたものたちが、それを許してくれない。

 布はこういうのがよかった、あそこの甘味処の新商品がおいしかった。
 ここの人が優しくてね。そうだ今日ここでお父様とお茶をしたの。
 昔からあるこの果実が本当においしくて。

 そう、毎日毎日、どうでもいいような話を聞かされてきた。

 どうでもいいはずなのに。

 歩く度に、その店の前を通る度に思い出して、忘れたい彼女を忘れさせてくれない。

「…どーしたの…」

 そりゃああも毎日聞かされていけば覚えるよななんて、顔を覆って。

 立ち止まった俺の元へ心配そうにやってきた水色の少女に。

 道の往来なんて構わず、昔のように、肩にもたれた。

「レグナー…?」
「……」

 頭の中に流れる会話。
 それを聞く度に溢れてくる想い。

「クリス」
「ん」

 一人じゃ抱えきれなくなったそれを、きっと、ずっと抱えてきた彼女に、こぼしてく。

「言えないって、辛いね」

 そっと背中に回ってきた手に、力が入った気がした。

「…レグナ」
「うん」
「好きだった?」

 聞かれた問いに、初めて、しっかり口にする。

「好きだったよ」

 言葉にしたら、何もかも止まらなかった。

 好きだよ。
 今でも好きだ。

 きっと手当してくれたあの瞬間から、優しくて、包み込むような月に惹かれていた。

 毎日のように来てくれることを心のどこかで嬉しく思ってた。
 来ないと心配になって、面倒とか言いつつも、そのどうでもいい話が聞きたくて迎えに行って。

 彼女の望む「俺がいる明日」を守りたくて、ずっとずっと、手を引かれていった。

 けれどどうしたって、いつかはその「明日」を叶えてあげることができないことを知ってしまったから、蓋をし続けた。

「いつか一人にするなら、最初から違う誰かと幸せになればいいって思ったんだ」
「…うん」

 何も言わないで、気づかないフリをして。
 最初からそうしていれば、お互い辛いものなんてないだろうと。

 そう、思っていたのに。

 好きだと言えない数週間が、ただただ辛かった。

 いつからか感じるようになった彼女の想いに期待する度に。
 少しずつ距離が縮まっていく程に。辛さは増していった。

 きっと手を伸ばせばその辛さもなかったかのように優しく包んでくれたんだろう。互いに好きだと言って、愛し合って、短い短い時間、幸せに過ごしていたんだろう。

 けれどあの日、最後だと言うように伸ばされた手を、俺は掴むことはしなかった。

 その”先”を思い浮かべてしまったら、どうしたって、言うことはできなかった。

 そうして理由をたくさんたくさんつけて。

 結局、あのときこうしていれば、なんて後悔をする。

 その後悔を知っているクリスティアが、小さく言った。

「…言わなくていい?」

 ──好きだと。
 思わず笑ってしまった。

「……今更?」

 こくり、うなずく。

「言えるなら、言えるときに言おうよ」

 もう言えなくなってしまわないように。それを一生、悔やまないように。

 小さくこぼされた言葉には、重みがあった。

「……」

 きっと言ったら楽になるんだろう。

 ──俺だけ。

 儚月は、「今更」なんて悲しく笑うのかもしれない。そんなのは、もっと嫌だった。

 だったら最低な奴だと思わせて、心にも残らないように消えていきたい。

 だから、

「……いいよ」
「…」

 小さく首を振って、

「名前も呼んだことのない弟分なんて、きっともう覚えてない」

 そんな言い訳をして、クリスティアを抱きしめた。

「…レグナはやさしいね」
「どこが」

 人の視線が刺さる中、儚月みたいなことを言うクリスティアに笑う。

「俺は、助けれてくれた人にお礼も言えない、想いも伝えられない、弱虫だよ」

 そんなことないよ。そう言いたげに頭をなでてくる親友に、少しだけ甘えるようにすり寄った。

 暖かい腕の中で思い出すのは、月みたいにきれいな人。

 優しく笑って、いつだってそっと手を伸ばしてくれた大事な人。

 その人に想いを伝えなかったこと、数年も一緒にいたのに名前すら呼ばなかったこと。助けてくれたお礼も言わなかったこと。

 きっとずっと、後悔するんだと思う。

 その後悔は、罰として。一生背負っていくから。

 どうかこんな奴のことなんて忘れて、幸せに笑っていてほしい。

 最後まで身勝手だななんて思いながら。

 後悔も、想いも。全部全部焼き付けてから、そっと、体を離して。

「……」
「…レグナ」
「へーき」

 クリスティアに、微笑む。

「帰ろっか」
「ん…」

 そうして、迷子にならないようにクリスティアの手を取って。

「……、──」

 見えた先の”その人”には、気づいてないフリをして、歩き出した。

『すれ違った君に、次はきっと”初めまして”と返すだろう』/レグナ